第四十一章  もぬけの殻

吉祥寺から水道道路を走り、甲州街道を通り抜けて、まもなく代々木の山手通りに出る手前で、老運転手は茂樹に話しかけた。
「お客さんは、流行歌が好きですか?」
急に、突拍子な質問をされたので、ぎょっとした茂樹だったが、仙台の国分町の盛り場でバーテンをやっていたから、流行歌が店の中でしょっちゅう流れていたことを思い出したので、「ああ好きですよ。特に美空ひばりの『悲しい酒』が好きです」
「あんた、いいとこあるね!」
運転手は感激した様子で言った。
「もう少しこの道を行くとね、古賀政男記念館があるんだが、その『悲しい酒』は古賀政男が作曲した曲だね。今は、この道も広くなったが、昔は住宅街の中の細い道で、そこに古賀政男の邸があって、この辺りも風情があったね。今は何の面影もない、つまらない町になってしまった」
「運転手さんは、東京の人ですか?」
「いや、あっしは美空ひばりと一緒で浜っ子ですよ」
自慢気に話す運転手の意図を計りかねていた茂樹だったが、その間はいらいらする気持ちが消えていた。
「これから、いざ出陣という時には、平常心が一番大事だね」
強い口調で言った、老運転手の背中を見た茂樹は、初めて男の背中を感じた。
「運転手さん、ありがとう」
茂樹は素直に言ったが、老運転手は何も答えなかった。
しかし、背中が何かを言っていると思った。
環状6号線は山手通りと言われ、多くの高級住宅地を通っている道路だ。
水道道路から山手通りに入ると、まもなく左手に高級住宅地で有名な松涛の町が見えてくる。
「この松涛の町は、ちょっと変わった町でね、確かに豪邸がずらっと建ち並んでいるんですが、土地はほとんど借地なんですよ。だからバブルの時も、ここは土地転がしで儲けようとする不動産屋の対象にならなかった。結構、芸能人や大企業の社長連中が住んでいるけど、資産価値は、日本では土地だけだから、あまり高くないんだな、この松涛の屋敷は」
『よく知っているなあ』と感心していた茂樹は、この話が後で、どれほど役に立つか、その時点では考えも及ばなかった。
住所で、家の場所を探していた運転手が、柴田という表札のついた門を見つけた。
茂樹は周りを見渡したが、美奈子が言っていた二台の車は無かった。
美奈子の携帯電話に掛けたら、すぐに出て、「もしもし。いま家の前に着きました。裏から入りたいので、そちらに見つからないように来てください」
「はい」と返事する美奈子に、何か違和感を持った茂樹だったが、タクシーを下りて、運転手に合図をして裏口の方にまわった茂樹を、美奈子は待っていた。
「応接間の様子はどうですか?」と聞く茂樹に、「いえ、あの後まったく静かなんです」
と美奈子が答えた。
裏口から入った二人は、応接間の様子を伺ったが、人がいる気配がしない。
茂樹が、思いきって応接間のドアを開けたら、中はもぬけの殻だった。
唖然としている茂樹は、「これは一体どういうことですか?あなたは上の部屋から見張っていたのでしょう?」
美奈子に強い口調で聞くと、美奈子は下を向いて言った。
「すみません。あまり眠いもので、ベッドで寝てしまいました」
茂樹はしばらく呆然としていた。