第五十二章  穏やかな日

翌日、美沙子は茂樹の会社に電話をした。
『また嫌味な女が出てくるかも』
美沙子はふと思ったが、茂樹の声を聞きたい、出来れば逢いたい想いが強かった。
「もしもし、和田さんいらっしゃいますか?」
「和田ですが」
茂樹が直接出た。
「美沙子です」
初めて、自分の名前を言ったのだ。
今までは、自分のことを神田と呼んでいたのに、敢えて「美沙子」と言ったのだ。
勘の鋭い茂樹は、すぐに察した。
「やあ、美沙子さん。僕から電話をしようと思っていたところだったんです」
美沙子は受話器を持ちながら、顔を赤らめた。
「昨日あれから美奈子さんが、倒れて病院に運ばれたようです。原因は判りませんが」
『なんだ、わたしの声を聞きたかったんじゃないんだわ』
美奈子が倒れたというのに、美沙子は茂樹の気持ちばかりが気になっていたのだ。
「もしもし、聞いているんですか?」
「はい」
美奈子のことを心配しない自分にも気づかないで、無意識に答えた。
「美奈子さんのこと、ご存知だったんですか?」
「いえ、何も聞いていません」
友人の美奈子が病院に運ばれたと言っているのに、驚きもしない美沙子に、実直、律儀な茂樹は切れかけた。
「すみません、ちょっとぼっとしていたもんですから」
美沙子がやっと我に帰って、まともな返事をしたので、気を取り直した茂樹は、「今日、いつもの処で会いませんか?」と明るく言った。
今回の事件で、お互いの自我が露呈して、気持ちが萎縮する場面があった為、会話も、少しぎくしゃくしていた。
「はい、わかりました」
明るい声で大きく返事した美沙子に、茂樹は笑った。
茂樹との電話の後、美沙子は美奈子の家に電話をした。
母親の幸子が出てきて、「美沙子さん、今回はあなたのお友達のお陰で、美奈子だけでなく、私達まで助けて頂いて感謝しています」
丁寧に礼を言う幸子に、恐縮しながら、美奈子のことを尋ねた。
「杉本耕作さんとの間でできた赤ちゃんですが、流産したんです。本人の体は大丈夫でしたので、不謹慎と言われるかも知れませんが、結果的には良かったと思っています」
美沙子も、そのことを聞いて、幸子と同じ想いだった。
『杉本耕作の子供だとはっきりしていないで産んだら、産まれてくる赤ちゃんがかわいそうだわ』
誰にも言えないが、内心呟く美沙子だった。
『それより、今晩は久しぶりに穏やかな楽しい夜になる』
そう思うと、美沙子の胸は熱くなるのだった。