第十一章  新しい門出

茂樹は、退職する方向で事を進めた。
耕一だけには打ち明けていたので、すぐに美奈子から美沙子に電話が掛かってきた。
「主人から聞いたんだけど、和田さん会社を辞めるんですって?何か嫌なことでもあったのかしら」
美沙子も茂樹から、杉本耕一には相談していることを聞いていたから、美奈子も承知していることは容易に想像出来た。
「ええ、そうなの。会社の先輩で、つい最近アメリカから帰国した石原さんという方からの誘いがあったらしいの」
美沙子は本来寡黙な女性だから、自分から敢えて多くを語ることはしなかった。
「三重にあるミクアマ・・・何とかいう会社らしいわね。その会社が東京事務所を開設するので、和田さんに、そこの責任者として白羽の矢が立ったというらしいじゃない。うちの主人も和田さんと同期でまだ平社員なのに、事務所長なんてすごいわね。しかも東京事務所長なんだから」
美沙子は、自分の知らないことまで、美奈子が知っているのに驚いた。
「へえ!わたし、そこまで詳しいこと知らないの、本当に?やっぱり男同士の付きあいだと、女房に言わないことまで言うのね・・・」
美奈子は急に黙ってしまった。
「美奈ちゃん、気にしなくていいのよ。そんなこと女同士の間でもよくある話じゃない。
女同士だから言いあえることって・・・」
美奈子のことを気遣って言っているのではない。本当にそう思ったからだ。
茂樹と別居して吉祥寺の実家に帰っていた時、昔付きあった男のことを思い出したこともあった。そんな件も美奈子は美沙子から聞いていてすべて知っていたことを思い出したからだ。
「そうね、わたしたちだけしか知らないことって沢山あるわね。主人は何も知らないだけで」
と電話の向こうで、明るい声で言って、笑っているようだった。
「それより、日本(ヤマト)ちゃん、元気に育っている?日本と書いてヤマトと呼ぶなんて素敵じゃない。美沙ちゃんが名づけたんだって?」
美沙子も日本(ヤマト)の話になると、自然に顔が緩む。
「夢の中で、何か知らないけど、すごく偉そうな人が現れて、日本(ヤマト)という名を与えるなんて言うのよ。わたしびっくりしちゃって・・・」
茂樹の転身の話をしていると、会話も乗らなかったのに、子供のことになると時間が経つのも忘れて、知らぬ間に2時間も話をしていた美沙子だった。
その日も茂樹は、電車の時刻表のように、正確に帰宅した。
美奈子から電話があったことを茂樹に報告すると、茂樹は神妙な顔をして話出した。
「杉本、美奈子さんと結婚してから変わったよ。別に悪く変わったとは思わないけど、以前のような怪物の迫力がなくなってしまって、平凡な他の社員と同じようになってしまった。人間て、結婚するとあんなに変わるもんかなあ。僕も変わったかい?」
美沙子なりに、いろいろ思うことはあったが、今は微妙な時期だけに、余計なことは喋らないように気を遣っていた。
「あなたは、そんなに変わってはいないわ。だって日本(ヤマト)が生まれても、こうやって転身するのだから、護りの姿勢にはなっていない証拠よ。いい意味で言っているのよ」
美沙子の話を聞いて、茂樹は嬉しそうに笑った。
「そうだね。それだけ余計にこれから頑張らなきゃ・・・」
満足気に話す茂樹を見ながら、『これからどんなことが起こっても、わたしが支えとなってあげなきゃ』と思う美沙子だった。
そしていよいよ茂樹の退社の日がやって来た。
十年以上勤めていただけに、さすがに寂しそうであったが、それよりも次の職場である東京事務所の設営を、並行して進めていたから、新しい職場に対する期待感の方が強かった。
新しい事務所を赤坂に決めたのだが、当初、ミクアマアンテナ株式会社の東京支店の予定だったのが急遽変更になって、ミクアマアンテナの貿易部門として新しい法人ミクアマ・リミテッドを設立、その社長に茂樹がなったのだ。
今まで、平社員で、人を遣った経験のない茂樹が社長になるのだ。
いくら小さい会社だと言っても社長という肩書きがつくから、自然と肩に力が入ってしまう。
それでなくても、性格的に情熱タイプだけに、美沙子から見ても、日々ガチガチになっていく様子がわかる。
「もう少し、肩の力を抜いたら?」
美沙子に言われて、自分でもわかっているだけに、「うん、そうだね」と頷いてはいるのだが、体が言うことを聞かない。
午前中、加藤商事に挨拶に行き、その足で赤坂の事務所に行った茂樹は、既に新しく雇い入れた、三人の社員に迎えられた。
「和田社長。よろしくお願いします」
三人から、深々と頭を下げられた。
男子社員が1人、女子社員が2人、茂樹も含めて4人の小さな会社だが、親会社が中堅企業といえども、これから世界的に広がっていく衛星放送のチューナーメーカーとしては大手に入る将来性のあるしっかりした会社なので、不安感はなかった。
「吉永君、大隈君、鈴木君。これからよろしくお願いします」
茂樹も丁寧に頭を下げて挨拶をした。
吉永哲也は茂樹よりも5才下で、小さな商社に勤めていたところを、ミクアマアンテナの求人広告を見て応募してきた男性だ。
大隈重子は、茂樹と同じ加藤商事に十年勤めていたベテラン女子社員だったが、茂樹が辞める時に、経理に明るい点を買われて誘われたのだ。
鈴木京子は、まだ二十歳の社会人一年生のフレッシュOLだ。
三人共、貿易に関しての経験と知識を買われた。
ミクアマアンテナの佐藤社長から、採用の件をすべて一任すると言われ、意気に感じた茂樹は、100人を越す応募者ひとりひとりに真摯に対応して選んだ。
大隈重子は、美沙子と同じ歳で、まだ独身だ。
浅草にあるマンションに猫と一緒の二人?暮らしをしている。
古くから浅草に居を構えた生粋の江戸っ子で、両親が残した財産でマンションを建てて悠々自適にのんびり猫との二人暮らしを楽しんでいる悠長な性格の女性だ。
経理に明るい点を茂樹に見込まれたのだが、そののんびりした性格と、律儀な江戸っ子の良さを持っていたのが、茂樹に気に入られていた。
その夜、杉本耕一が会社を退けて、すぐに祝いに駆けつけてくれた。
赤坂の一杯飲み屋で、みんなで新会社発足会をした。
久しぶりの夜の付き合いだったが、茂樹は大いに楽しんだ。
「やっぱり、こういう雰囲気がいいなあ。なあ杉本?」
耕一も同意した。
「そうだな。確かに和田が言うように、大手総合商社の中の人間関係は殺伐としている。表面は派手で、誰にでも愛想良く振舞うので、楽しそうに見えるけど、心の中では、出世競争のライバルだと、はっきり思っているから、気を許せなくて神経が疲れるよ。
客にも神経を遣い、中でも神経を遣わなければならないから、余り良い職業じゃないと、俺も思っている」
茂樹は、耕一の話に内心驚いた。
『杉本も内心はそう思っていたのか』
長い付き合いの二人が、同時期に結婚してから、少し溝が出来たようにお互い思っていたのだが、この夜に、それが氷解したのが、茂樹にとって何よりも嬉しかった。
「杉本。これからも仲良く付き合ってくれよな」
「もちろんだ。俺は、お前は勇気があると感心してるんだ。だから俺の為にも、必ずこの会社を成功させてくれ。俺で出来ることなら何でも協力する」
二人は固い握手をした。
横でその様子を見ていた重子の目が潤んでいたのを吉永も京子も気がついていなかった。
久しぶりに帰宅が遅くなった茂樹を、玄関まで日本(ヤマト)を抱いて迎えに出て来た美沙子は、その表情が明るかったのを見てほっとした。
『取りあえず、初陣は勝利を収めたようだ』
内心、嬉しさより安心の気持ちだった美沙子だが、「食事は済ませたでしょう。お茶でもいれましょうか?」
と訊くと、「いやグラス三つとビールを頼むよ」と茂樹は言った。
「これから、家での三人の祝い会だ。今日は日本(ヤマト)も、お祝いのビールを飲ませよう」
びっくりした美沙子は、「本気?」と訊くと、「冗談だよ、恰好だけ」と言って大笑いした。
『こういうのが、幸せというのかな』
美沙子が初めて感じる経験だった。