第十四章  茂樹のアキレス腱

茂樹の反発にたじろいだ石原は、吉永の讒言を信用した己の未熟さに後悔した。
しかし優等生人生を送ってきた故の未熟さを露呈したことに気づくまでの痛手を負っていなかった。
それが、石原の不幸の序曲になるとは、本人も茂樹すらも分かるべくもなかった。
『こんな結末になるなら、あの時、石原さんをもっと諌めるべきだった』
後に、茂樹は悔しさに臍を噛むことになる。
吉永は、人間の最も根源にあり、使いようによって両刃の剣になる、人間である故のアキレス腱を、直感的に察知する能力に長けた男だった。
茂樹にとってのアキレス腱が石原だと判断したことも、間違ってはいなかった。
一時は、自分の讒言を鵜呑みにして、思い通りに事が運んでいたはずだったが、茂樹の捨て身の反撃が、石原の心を動かしたのが誤算だった。
しかし、吉永はしたたかな男だ。
『この手が駄目なら、あの手がある』
と言った具合に次から次へと手を打ってくる。
大隈重子と茂樹は、同じ加藤商事にいたこともあって、新人で入った鈴木京子でさえ、ふたりの仲を怪しんだほどであった。
吉永は、次のアキレス腱を、茂樹と重子の関係に絞って攻撃する手に変えてきた。
「大隈さんは、社長とは、随分長い付きあいなんですね」
吉永は重子にジャブを出してみた。
重子は、気配りの出来る女性のように一見みえるが、実は細かいことに気がつかない、おおらかな女性で、やはり育った環境のせいか、何事にも大雑把な女性であった。
「そうなのよ、もう。加藤商事の時代にも和田さんと出来ている、なんて何回も言われて、わたし困っちゃったことが何度かあったのよ・・・」
特徴のある、顎を張って、言葉を篭らせて喋る癖がある。
「そうですね。僕も最初は、二人は出来ていると思っていましたよ」
真面目な表情になって喋る吉永に乗せられて、重子はポンポン喋り出した。
「嫌、やめてよ!吉永さん。和田さんのようなデリカシーの無い人は、わたしのタイプじゃないわよ!」
天真爛漫に笑いながら喋る重子の表情を観察している狡猾な吉永は、腹の中でニンマリと笑っていた。
「和田社長って、そんなにデリカシーに乏しい人なんですか?」
澄ました顔をして吉永は、少しでも茂樹のアキレス腱を引き出そうと必死になっているのが、重子は見抜けないのだった。
「良い人なんだけど、凄く短気なところがあって、それでいて単純だから。ヒヤヒヤすることがいっぱいあるのよ!本当に困った人なのよ」
悪気なく喋っている重子なのだが、吉永は悪意で聞いているから、重子の喋っていることは、すべて茂樹に対する悪口に聞こえるのだ。
人間関係の難しさは、お互いの意図が、自己本意であることに根元がある。
善意で言っているつもりでも、聞く側が悪意であれば、すべて悪くとられる。
悪意で言っているつもりでも、聞く側が善意であれば、すべて善くとられる。
善意同士であれば、人間同士の争いなど起こるべくもないのだが、人の世は、ほとんど悪意でとられるのが常で、特に、現在のような殺伐とした日本の状況では、ほとんどの人間が、すべてのことを悪意で以って判断してしまう。
こうなると悪循環に陥り、坂をころげ落ちていく。
今の日本は、国家としても、国民としても、そして一人間としても、みんな坂をころげ落ちている状況にある。
茂樹と付き合いの浅い吉永は、重子から悪意の情報を、目一杯引きだすのに成功した。