第二十七章  案ずるより生むが易し

日航ホテルの日本料理レストラン「弁慶」に入った3人は、奥の仕切り個室に案内された。
英之介が予約していたのだ。
「込み入った話になるかもしれないので、個室を予約しておきました」
二人を床の間の方へ座らせ、英之介は、出入口側のテーブルに一人で座って、笑いながら言った。
「どうも、すみません」
石原がそう言って座りかけたのを制止した茂樹が英之介に言った。
「とんでもない!今日は、こちらの方から押し掛けてのお願い事ですから、東郷さんがこちらの方へお座りください」
英之介が座った席に、無理に代わろうとした茂樹の腕を掴んで、英之介は首を横に振った。
「和田さん!そんな形式ばったことはやめましょう。今は、あなた方二人は大変な時です。それに比べて、わたしは未だ、日の丸号に乗っている極楽トンボです。無理はやめましょう」
そこまで言われたら、言うことを聞かなければ仕方ない。
「そうですか?」
茂樹の真摯な態度をすぐに見抜いた英之介は、目で微笑を表わした。
『この人は、恐ろしい程の動物的直感を働かせている!』
茂樹は、この瞬間、衣の中に着ていた鎧を外した。
二人の間で交わせていた視線の闘いが終わったのに、石原一人だけは、全くの能天気だったが、英之介はそんな石原を包み込んでいた。
食事が運ばれる中で、英之介は平然と懸案事項の話題に入った。
「ミクアマアンテナは和議申請されたのですから、石原さんが粛粛と事を進めて行けばいいでしょう。その間に和田さんが、ひそひそと事を進めて行き、わたしは大胆且つ繊細に事を進めて行く。これで一件落着となるでしょう。用件はこれで終了です。さあ、飲んで食べましょう。はははは!」
新幹線の中で夢を見た時の、英之介の笑いそのものだった。
実に簡潔明瞭な結論に、茂樹は舌を巻いた。
茂樹は、もっと詳細な話をしたかった。
「和田さん、新会社設立の資金面、人の面は大丈夫ですね?ミクアマからの商権移牒に関しては、全面的にわたしを信頼してください。サンシー電気は新会社をミクアマ同様、全面支援することを約束します」
毅然と言う英之介の態度に、二人は只々信頼してついていくだけしかなかった。
『サンシー電気は大企業だが、一課長がここまで会社の方針を断言出来る自信は一体どこから来ているのだろう?』
茂樹は不思議で仕方なかった。
「ちょっと、手洗いに失礼します」
席を立って、店の正面にある手洗いに入った茂樹は用を済ませた後、一呼吸置きたかったのだ。
ホールで煙草を吸い、「フッ!」とため息をつくと、急に美沙子の声が聞きたくなった。
傍にある公衆電話の受話器を上げて、家の番号を押した。
「もし、もし。あなた?」
美沙子は、茂樹が電話をかけてくるのを予期していたようだった。
「もし、もし。今、日航ホテルの公衆電話からだ。東郷さんに身を任せてみることに決めたよ。これからは、サラリーマンの時のようなのんびりは許されないけど・・・」
事の子細を簡単に美沙子に言うと、「そんなことは、あなたがすべて決めたらいいわ。わたしにいちいち相談してくれなくていいの。あなたが東郷さんに身を委ねたのと同じように、わたしはとうの昔に、あなたに身を委ねていますから。ご心配なく・・・」
美沙子の言葉で、すっと楽になった茂樹の心には、もう英之介に対する対抗心も畏怖心も消え失せていた。
「どうも失礼いたしました」
部屋に戻ってきた茂樹に、石原が嬉しそうに声を掛けてきた。
「和田君。東郷さんが、向こう3年間の注文を保証してくださったよ。ほらこれが注文書だよ」
信じられない様子で、石原から受け取った書類に、茂樹は目をやった。
3年間で25億円の注文額で、注文先がブランクで、サンシー電気社長印の押した書類だった。
「和田さん。早く、新会社設立の手続きをしてくださいよ。それでないと、この注文書はいつまでもブランクのままになりますから」
25億円の注文を、注文先の名前も決まっていないのに、大企業が発行するという前代未聞の書類だった。
『嘘でもいい!この書類は一生の記念にしておこう』
茂樹は感動していた。
「事業も、結局詰まるところ、人間関係ですからね。うちのトップは、まだそこのところが解っていない。だけど、たかだか課長の身である、わたしに任せてくれるのですから、まあ、ひどい大企業の中では、ましな部類に入るのではないでしょうか。わたしは、うちの会社のそんなところが好きなんです」
サンシー電気の社長よりも知名度の高い東郷英之介だが、驕るところが全くなく、会社に愛着を持っている。
『加藤商事を簡単に辞めた我々とは、所詮、人間の格が違う!』
と思った茂樹は、二度と職を変えることはしないと心に決めるのだった。
「東郷さんは、サンシー電気にこれからも、ずっといるつもりですか?」
石原が、馬鹿な質問を投げた。
茂樹が間に入ろうとしたが、英之介は手で、茂樹を制止して、微笑ながら言った。
「サンシー電気が、わたしを必要としている間は、いますよ。首になったら、仕方ないですが。だけど、設立される新会社との契約は、わたしではなく、サンシー電気株式会社ですから、たとえわたしが首になっても心配無用です」
はらはらして聞いていた茂樹は、英之介の肝のすわった発言に、心の中で赤面していた。
「案ずるより生むが易し。と言いますが、本当にそうですね!」
英之介と別れた茂樹は、ホテルのエレベーターホールで、石原に言った。
「そうだなあ」
何となく元気のない石原の様子だったが、今日の茂樹には、何も気になるものはなかった。
部屋に戻ろうとした茂樹は、石原から誘われた。
「和田君。もう一杯どこかでやろうか?」
しかし、茂樹は、今日のこの余韻を一人で味わいたかった。
「すみません。緊張の連続で、今日は疲れました。もう寝ます」
即座に断られた石原は、淋しそうに、「そうか。それじゃ僕一人で一杯ひっかけてくるよ。明日は、9時にフロントで会おう」
エレベータホールを離れていく石原の後姿が哀れだった。
「さあ、これからが人生の勝負だ!」
茂樹は、『大阪にやってきて良かった!』と思った。