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第二十八章 久しぶりの一家団欒 翌朝9時にフロントで待ち合わせた茂樹と石原は、お互い勝手にチェックアウトして、朝食を食べる雰囲気でなかったので、ホテルから直接通じる地下鉄まで言葉ひとつ交わさず歩いた。 券売機で新大阪まで買い、心斎橋のプラットホームで電車を待つ二人であったが、まるで見知らぬ同士のようであった。 プラットホームに電車が入ってきて、かなり混み合った電車のドア近くの所で、顔を突き合わせんばかりになって、初めて茂樹の口が開いた。 「石原さんは、名古屋から松阪に戻られるんですね?僕は、今日は直接千葉に帰ります」 以前なら、会社は違っていても、石原に了解を取る事項であったのに、茂樹は敢えてしなかった。 茂樹の変貌した態度に、以前の石原なら察することが出来たであろう。 しかし今の石原は、まるで迷い子になった子供のようで、ひとつひとつの何気ないことの判断が正常に出来なくなっていたのだ。 一緒に東郷英之介に会いに大阪にやってきた、この二日間に茂樹は、そのことを感じ取っていた。 『暫くは、石原さんとは距離を置いた方がいいなあ!』 茂樹の危機予知アンテナが働いたのだ。 大人と子供の違いは、この危機予知アンテナの感度にある。 本来、子供は動物に近い生き方をしているので、このアンテナのセンサーは感度がいい筈である。 ところが人間の子供だけは、生まれてから3年ぐらいの間に、このセンサーを親の躾によって破壊されてしまう。 人間の子供は、危機予知アンテナが全く作動しない、危険極まりない無謀な生き方をして育っていく中で、何度も頭を打ち、その度に臆病になりながら青年から大人になっていく。 動物の世界では、考えられないことで、そんな子供はすべて自然の掟の中で淘汰されていく。 本来の自然の掟に沿った、弱肉強食の動物の世界では、人間という動物は生き残れないで淘汰される部類に入っているようだ。 茂樹は、石原を見ていて、つくづくそう思った。 『優秀な人間というのは、本当に弱々しい羊のような生き物だ。集団の中にいて、初めて卑小な能力を発揮する。一人になったら皆目だらしない動物だ』 石原に対する、そういう気持ちが、自然に茂樹の口を重くしていたのだ。 名古屋駅で石原が下りて、独りになった茂樹は、やっと自由になれた気分だった。 『石原さんには悪いが、一緒にやって行けないなあ・・・・・・』 これからのことに想いを馳せながら、茂樹は寝入ってしまった。 「ヤマト!今帰ったよ!」 「トトが帰って来た。トトが帰って来た」 ヤマトが玄関で茂樹を迎えてくれた。 3才のヤマトをだき抱えた茂樹の腕の中から、ヤマトの姿が急に消えた。 「ヤマト!ヤマト!」 茂樹は必死になってヤマトを探した。 足許に、ぐったりと横たわっているヤマトを見つけた茂樹は、目の前が真暗になり、ヤマトの姿がどんどん遠くなっていく。 「ヤマト!ヤマト!・・・」 茂樹は目を醒ました。 『今思い出したが、昨日の夜も同じ夢を見ていた』 急に心配になった茂樹は、新幹線の中の公衆電話に飛びついて、美沙子に電話をした。 「もしもし。あなた!」 美沙子が出て来るなり、茂樹の電話を待っていた様子だった。 茂樹の心臓の鼓動が速くなっているのも気づかない程、茂樹は動転して、「ヤマトに何かあったのか!」 叫ぶような声に、電話の近くにいた数人の乗客がびっくりして茂樹の方を振り向いた。 そんな様子も目に入らないで、「ヤマト!」と叫んでいる。 「あなた、一体どうしたの?ヤマトはここに元気でいますよ」 美沙子の一言で、全身冷や汗でびっしょり濡れていた体から、熱がすっと引いていく感じがした茂樹は、「よかった!」と小さく呟くのだった。 千葉のマンションに着くと、ヤマトがいつものように迎えてくれた。 「トト!昨日はどうしたの?」 ちょっと怒ったような顔をして言うヤマトを見て、さき程までの悪夢とのコントラストで、もの凄い幸福感が茂樹の全身を包み込んだ。 「お帰りなさい。とても疲れた様子ね。やはり大阪では大変だったのね」 ねぎらってくれる美沙子に、悪夢で疲れたと言えずに、ただ肯くだけの茂樹だった。 一日だけしか家を空けていないのに、随分永い間留守したような気持ちだったのは、やはり大阪で東郷英之介と面談する件が、茂樹に重圧を掛けていたのである。 三人でテーブルを囲んでの夕食は、先の不安を抱えている筈なのに、茂樹にとっては、幸福の絶頂のように感じていた。 『この状態でさえあれば、他は何も要らない!』 人間の幸福感とは、このようなものであるのかもしれない。 求めて得られれば、この上ない幸福であるのだが、どうやらそのような事は有り得ないのが人生のようだ。 釈迦が言ったという、人生の四苦八苦の中で、求不得苦というのがあるように、人生とは、求めるものは決して得られないのだ。 幸福感とは、与えられるものであるが故に、与えられた幸福者にとっては細やかなものであるのが、その本質であることを、人間は解っていない。 人生において、細やかな幸福を感じることは多々ある。 しかし、人間はそれを幸福と感じずに、四苦八苦ばかりを感じ取って生きているのだから、幸福になれる訳がない。 本当の人生は、細やかな幸福が鏤められた宝石箱のような素晴らしいものであって、決して叶えられない希望が詰まっているパンドラの箱ではない。 結局の処は、自分自身で造り上げたパンドラの箱に追いかけられているだけのことなのだ。 細やかな幸福が鏤められた宝石箱は誰にでも与えられていることに、人間が気づかない限り、本当の幸福感を感じることはできない。 美沙子と茂樹は、本当の幸せとは何かがやっと解りかけて来たのである。 その為にはまた、細やかな犠牲が要るのだった。 「やはり新会社をつくるの?」 美沙子が食事をしながら訊いてきた。 すべて茂樹に委ねたと言っても、女は現実的である。 余りにも、手弱い故、現実的にならざるを得ない宿命を背負っているのが、人間の女である。 動物の雌は、孕んでいても狩をする。 雄の方が腕力があるのに、狩は雌の仕事なのである。 そして雄が先に食べる。 人間社会において、家事が女性の仕事となっているのと、どこか共通点がある。 それでは雄の仕事は一体何なのか? それを人間は完全に忘れてしまっているのだ。 雄の仕事は、子供を孕ませることと、外敵から家族を守ることであり、如何なる動物でも、サバイバルゲーム、即ち自然淘汰の摂理の中で生き残ることが、絶対要件であるのだ。 だから雄がボスになり、雌が狩をして得た食べ物を、雄が先に食べるのである。 この摂理を忘れて、現代人間社会は、雄も雌も本来の任務を忘れてしまっている。 以前の茂樹だったら、家庭内で仕事の話は一切しなかったであろうが、東郷英之介に対し鎧を外せたことで、自然体になれた結果、何事にも拘りがなくなったのだ。 それを微妙に察知したからこそ、美沙子も訊いてみたのだ。 「ああ、石原さんは、暫らくミクアマアンテナの整理に忙殺されるから、僕が、会社設立をしなければならなくなった。大変だけど、やり甲斐がある仕事だと思っている。ミクアマ・リミテッドは与えられたものだったけど、今度は自分でゼロから作る会社だから、愛着もあるし、それだけ背水の陣だよ」 今までの茂樹と違って肩を張っているところが見受けられない。 美沙子は、そんな茂樹を改めて見直した。 もうじき4歳になるヤマトを見ていて、茂樹は美沙子に言った。 「子供を産むのは、もうたくさんかい?」 美沙子は顔を赤らめながら、首を横に振った。 その夜は、ヤマトは独りで淋しく寝る羽目になったが、それが何を意味するかを理解するべくもなかった。 |