第二十九章  女の業

事業家としての一歩を踏み出した茂樹は、持ち前の負けん気の強さで会社設立に向けて動き始めた。
美沙子は、そんな茂樹を見ていてますます信頼感を深めていくのだった。
『わたしは、あの人の妻として、そしてヤマトと、生まれて来る赤ちゃんの母として、いい女であればいいと思う』
久しぶりに杉本美奈子から電話があった。
「美沙ちゃん。主人から聞いたんだけど、和田さん、大丈夫?」
ミクアマアンテナが事実上倒産したことを言っているらしい。
「主人の仕事のことについては、美奈ちゃんとこと同じで、わたし何も知らないの。黙ってついて行けばいいと思っているの」
美沙子は本音で美奈子に言った。
「・・・・・」
美奈子は黙っていた。
以前の美沙子だったら、相手のことを気にしていたのだが、今は肝がすわったのか、淡々としている。
「美奈ちゃんとこは、変わりなし?杉本さんは、お元気?」
「やっぱり、すごく変わった!美沙ちゃん」
急に美奈子は言った。
『彼女、何かあったのかしら?突然電話してきて、いやにわたしのこと気にしている・・・・。また前の悪い癖が・・・』
二人が独身の頃のことを美沙子は思い出していた。
今では懐かしい思い出であったが、美奈子の一本の電話から、二人のその後の人生を決定づける事件が起こったのである。
美奈子の自己中心的な言動が、まわりのものを巻き込んで警察沙汰にまで及んだ事件だったが、美奈子にとっては災いが転じて福を与えられる結果となったのだ。
その当時、美沙子と茂樹の夫婦関係は最悪の状態であっただけに、言葉に出すような美沙子ではなかったが、内心では世の中が決して公正でないことに失望を感じていた頃だった。
『なんで、あんな勝手な美奈ちゃんが幸せで、わたしはこんなに苦しまなければならないのかしら。一体わたしが何をしたと言うの・・・』
そんな自問自答する日々が続いていた。
そして茂樹との別居生活。
思い出しただけで、ぞっとするような気分だった。
『それに比べたら、今はヤマトもいるし、お腹には赤ちゃんがいる。苦労なんてそんなに長続きするもんじゃない・・・。だけど幸せも長続きするもんじゃない・・・』
そう思うと、ふっと美奈子と自分の立場が変わってしまっているのではないかと思う美沙子だった。
「美奈ちゃん、何か悩みでもあるの?」
美奈子にそう訊く自分が、ちょっと優越感に浸っていることに、気がついている美沙子だった。
「ええ、実はそれで美沙ちゃんに電話をしたの」
『やっぱり!人間なんて、そう簡単に変わりはしないわ』
美沙子は内心勝ち誇ったような気持ちだった。
「杉本さんとのこと?」
何も心配などしていないのに、心配そうに話をする自分に、少し気が引けていたが、それよりも好奇心の方が強かったのである。
人間という動物は、本質的に弱い生き物であるから、考え方の根元のところでは、他人の不幸を自分の幸福だと思うものらしい。
強い動物は、決して弱者の不幸を悦ぶことはない。
強い者の強いものたる所以は、強者に対して雄々しく、弱者に対して慈悲の心があることだ。
弱い者の弱いものたる所以は、強者に対して媚びへつらい、弱者に対して無慈悲であることだ。
他人の不幸を悦ぶものは、弱者の特徴である。
「うん。別に主人のことじゃないんだけど・・・」
美沙子の脳裏に、いろいろな考えが浮かんできた。
「じゃあ、何なの?」
美奈子は、黙ってしまった。
「黙っていてはわからないわ・・・」
そう言いながら、美沙子は心の中で呟いていた。
『少しは、悩めばいいのよ。わたしが苦しんでいた時、あなたはルンルンとしていたじゃない!以前のように勝手な相談ごとされても、今のわたしは関係ないわ』
黙っていた美奈子も、美沙子の冷たい態度に気がついたのか、重くなっている口を開いた。
「もういいの。ごめんなさい。勝手なことで、電話なんかして」
殊勝になっている美奈子に対して、以前の美沙子だったら憐憫の情が湧いていたのだが、却って優越感に浸っている。
「ああ、そうそう。美奈ちゃん、ちょっといい?わたし二人目の赤ちゃんができたらしいの。あなた年子の子供を産んだでしょう。大変じゃなかった?わたし不安で、不安で・・・・お産では苦労したから、とても心配なの」
美奈子は黙っていた。
「ごめんなさい。美奈ちゃんが悩んでいる時に、こんな話題をして・・・」
そう言いながら、話題を美奈子の件に戻そうとする振りをした。
「もういいの。ごめんなさい。あなたは今それどころではないのにね・・・・・、じゃ又」
そう言って美奈子は電話を切ってしまった。
少し可哀想なことをしたと反省する美沙子だったが、自分の都合のいい時だけ電話をしてくる美奈子の身勝手さに同情する気にはなれない美沙子だった。
『わたしって、いやらしい女なのかしら。だけど彼女は、それ以上にいやらしいわ。そんなことにいちいち同情なんかしていられないわ・・・』
内心勝ち誇った気分でいた時、ヤマトがやって来た。
「カカ、今の電話の人、カカのお友達のミナちゃん?」
ちゃんと聞いていたのだ。
「ええ、そうよ。ヤマト憶えている?」
「うん、よく憶えているよ。さっきのカカの顔、余りよくないよ」
ヤマトに、ハンマーで頭をガツンと殴られたような気分の美沙子だった。
はっと我に帰った美沙子は、慌てて受話器を上げた。
しかし、呼び出し音が続くばかりで応答がなかった。
『何かよく思い出せないけど、前にも、これと同じ情景に遭ったような気がする!』
ヤマトを抱きかかえて、「ごめんなさい、ヤマト。カカは好くない子ね」
美沙子は泣きながら、ヤマトの顔をじっと見つめていた。
「カカは子供じゃない。カカは大人だよ。ヤマトのカカだよ。しっかりしなくちゃいけないよ」
ヤマトが、こんなことを言ったのは初めてであった。
『子供の成長は、こんなに速いんだわ。それに比べたら大人は・・・。もっと気を丈夫に持たなくっちゃいけない』
ふっと、茂樹が新しい仕事に必死になっている姿を浮かべて美沙子は思うのだった。