第三十章  妻の本分

設立しようとしている新会社の本社を何処にするかで、茂樹は石原と対立したが、怪物・東郷英之介の鶴の一声で決まった。
石原はサンシー電気の本社がある大阪を主張したが、ミクアマアンテナが在った松阪に本社を置くべきと言った茂樹の意見を英之介が支持したのである。
「石原さん。ミクアマアンテナの商権を引き継ぐ新会社を一体如何なる理由で大阪に設立するんですか?サンシー電気が大阪にあるからですか?ミクアマアンテナの商権を引き継ぐということは、ミクアマアンテナの技術力、製造ノウハウを引き継ぐということじゃないんですか!生産した商品は殆どサンシー電気に納品するのだから営業力は二の次でしょう。
サンシー電気の下請け企業になって、御用聞きにでもなろうと言うんですか・。
それなら、とんだ見当違いですよ。
我々はメーカーなんです。
商社の連中は、何かと言えば、『メーカーさん』と言って製造業を馬鹿にする傾向がある。
わたしは、あなたがいた加藤商事の福本副社長に、『あんたとこの業種なんて、大手総合商社とか言って、阿呆なタレントと愚かなスチュアーデス相手に一本釣りしている男芸者のブローカーじゃないですか。国際的には格の低い職業だってことを忘れないことですね』と言ったことがあります。事実その通りです。経済の基本は、ものつくりであることを忘れると、その国は衰退するのです。縁の下の力持ちの役目の者が表舞台にしゃしゃり出て、偉そうな顔をするから、この国はおかしくなったんです。銀行、証券会社などは、紳士面しているが、まるでごきぶりのような賎しさです。製造業に誇りを持たないと駄目です。製造業にとって工場が顔です。ミクアマアンテナの工場が松阪にあり、工場技能者が松阪にいるなら、和田さんが主張している松阪が当然でしょう。あなたは、そんな基本もわからないんですか。まだ商社マンの男芸者根性が抜けていないんですね」
英之介とは、茂樹よりずっと親しい関係だったのを自負していた石原は、英之介の余りにも辛辣な発言にショックを受けた。
英之介に頭をガツンと殴られた石原は、それ以来茂樹の前に姿を見せなくなっていた。
「和田さん。もうわかっていたことですから今更驚くのも阿呆らしいことです。それより、工場の目処は立ったのですか?」
英之介は茂樹に電話して言った。
苦学して東北大学を出た茂樹は、たまたま商社に入社したが、一見派手に見えるブローカー業に嫌気がさしていた。
派手好みの連中が多く、中味より見てくればかりに神経が行く、まるで盛りのついた猫のような連中ばかりいる大手総合商社が性に合わなかったと悟ったから転職したのである。
そしてミクアマアンテナの乙波に乗ったのだ。
そのこと自体に後悔するような茂樹では決してなかったが、転職ではなく独立となると大変なことが待っている。
特に、嫌な銀行に頭を下げて融資してもらわなければならない。
自己資金がある訳でもないから、細やかなメーカーだと言っても、工場が先ず要る。
工場をつくる以前の資本集めに四苦八苦している自分に自信を失くしていた茂樹は、再び英之介の知恵と腕力に頼らざるを得なかった。
「和田さん、例の注文書あるでしょう。あれを銀行に見せてやれば、どんな銀行でも安心しますよ。大企業を利用するんですよ。そんな程度しか最近の大企業の存在価値は無いんですから」
ミクアマアンテナのメインバンクだったしあわせ銀行の松阪支店長と会った茂樹は、「これを先に見せて頂いていたなら、すぐに融資に協力させて貰っていたのに・・・」と言われて衝撃を受けた。
『大企業の注文書一枚で、実に簡単に結論を出す。中小、零細企業を立ち上げるのは、大変なことだ!』
そう思った茂樹は、石原の世間知らずを心の中で馬鹿にしていた自分に失笑していた。
「どうかしたの?笑っていたけど・・・」
松阪からとんぼ帰りで戻って来た茂樹に美沙子は訊いた。
「今日、松阪に行ってしあわせ銀行の支店長と融資の話をしたんだが、今までいくら頭を下げても、首を縦に振らなかったのに、サンシー電気の注文書一枚で融資OKだった。この国で事業を興すことは大変なことだと言うことが、つくづくわかったんだ。それで苦笑いしていたんだ」
美沙子は、茂樹が外でどれほど大変なことをしているか想像しようと思えば出来たが、敢えてせずに今日までやってきた。
それが妻であり、母親でもある自分からの茂樹に対する精一杯の思いやりであると確信していた。
しかし、二人目の子供を宿していることはまだ言っていなかった。
「あなた、こんな時期に言うのは酷かも知れないけど、励ます意味で告白したいことがあるの」
茂樹は一瞬たじろいだが、自分が置かれている今の状態ならば何でも耐えることが出来ると思って肝を据えた。
「何でも言っていいよ」
優しく答える茂樹の表情を見て美沙子は微笑ながら口を開いた。
「赤ちゃんができたの!」
二人目の子供を欲しいとお互いに思っていただけに、ある程度期待していた筈なのに、美沙子から直接言われた茂樹は歓喜した。
その瞬間(とき)だけは、新しい会社のことも忘れて喜ぶことができる自分に茂樹は満足と、先行き不安の気持ちを吹き飛ばす自信が湧いて来るのを感じていた。
「ほんとかい!それはよかった。本当に嬉しいよ。強い励みになる、ありがとう。美沙子!」
松阪から帰って来た時には、憂鬱な表情をしていただけに、妻として出来ることを必死に考えた末の告白であったが、片時の幸せであっても今はそれで充分納得できる妻としての人生だと美沙子は思った。