第五章  切れた女の恐ろしさ

一度は、カッとなった気持ちを、お互いに抑えた二人は、笑顔で以って普段の精神状態に戻そうとした。
エレベータホールから、自分たちのマンションまでは、たかだか一分ほどの時間だったのに、二人にとっては、一時間以上の感覚に思った。
美沙子は、自分の方から歩み寄ろうと努力した気持ちが強かっただけに、その反動は、相当なものだった。
生来、感情的にはならない体質の美沙子だが、元々は赤の他人だった男女が、ひとつ屋根の下に五年も一緒に住むと、お互い、いろいろ嫌な面が見えてきて、今まで感情を抑えてきただけに、一挙に爆発しそうになった。
美沙子の性格を充分承知している茂樹だったが、今日の検査結果で、美沙子に対するネガティブな気持ちがあっただけに、自分の我をつい通してしまったのだ。
マンションのドアを開けると、美沙子が既に料理をして用意していた夕食の匂いが、茂樹の心に一瞬、後悔の念が、もたげそうになったのだが、「夕食は、外で済ましてきたから、いらないよ」と、心にも無い言葉を吐いてしまった。
内心では、美沙子が、いつになく先に帰って、食事の支度をしていてくれたことに、喜びを感じながらも、心と裏腹のことを茂樹は言ってしまった。
「そう、それじゃ、わたし独りで頂くわ」と、美沙子らしからぬ言葉を返してしまった。
しかし、売り言葉に買い言葉で応酬した美沙子の心の中には悔やみの気持ちがまったくなかった。
哀しい気持ちにならない自分に、逆に驚きを感じて戸惑うのだった。
『正式に婚姻届けを出していなくてよかった』
心の中で呟く自分が、以前の自分と同じとは思いたくないのだが、気分が悪くなるほど、悪魔が吐くような言葉が次から次へと湧いてくるのだった。
『子供をつくっていなくて本当によかった』
『このまま別れても、わたしはバツ一にならないから、やり直しが利く』
そんな茂樹に対するネガティブな気持ちが、一気に噴き出すと、とことんまで行く自分に、怖さすら感じるのだった。
大学時代に初めて恋愛感情を持ってつきあった男性のことが、今までは完全に忘却の彼方に押しやられていたのに、浮かんでくるのだ。
初めて自分の体を許した相手だった。
女というものは、現在の状況に埋没し易い体質であるから、男性が想像するほど、過去のことを引きずらない。
逆に、男は過去を引きずる。
それが、女からすると、うじうじしているように見える。
それほど価値観が正反対である男女が、これまた恋に陥るのだから、皮肉なものだ。
何十年も夫婦生活を続けていると、何回かは相手が死んでくれたらいいのにと、ふと思うことがある。
そんな気持ちが継続しないから夫婦関係は続くわけで、真剣に、そんなことを考え出したら、世の中すべての夫婦が、結局離婚してしまう結末になっているだろう。
今の美沙子の気持ちは、それに近いものだった。
良く言えば、冷静で暴走しない美沙子だから、ここで爆発しなかったのだが、心の中で、完全に切れてしまった状態だった。
そういう時には、過去のことを引きずらない女でも、普通、女の世界では有り得ない郷愁の想いが湧いて来るのだった。