第六章  切れない男の恐ろしさ

美沙子が心の中で思っていることを、知るべくもない茂樹だったが、フィーリングで二人の間の距離が突然遠くなったことを悟った。
淡々と自分の作った料理を食べている美沙子の心情は、茂樹にも分かった。
長い間、仙台の実家から離れて生活してきた茂樹にとって、独りでの夕食ほど侘しいものはない。
どんな高級な料理を口にしても、まるで砂漠の砂を噛んでいるような空しさであることを、骨の髄まで知っていた。
ましてや、自分の作った料理を、自分独りで食べるほど、孤独なものはない。
一瞬、情が出て、自分から折れようと思った茂樹だった。
そこへ、美沙子から、突然出て来た言葉で、その情もどこかへ消え去って行った。
「こんな時は、同棲生活していて、つくづく良かったと思うわ。わたし、暫く実家に帰ります」
茂樹にとって、家を出て行くことは、自分たち家族を捨てて蒸発した父親のことを想起させる、彼にとって最もタブーになっている言葉だった。
しかし、美沙子の言った同棲生活は、二人が同意した案だったことを思い出して初めて、自分自身に自己矛盾があったことを強烈に認識させられる結果となってしまった。
売り言葉に、買い言葉で、茂樹も言ってはならない言葉をつい滑らせてしまった。
「俺も良かったと思うよ。子供のできないような女と分かっていて結婚は無理だったから、同棲でちょうど良かった」
美沙子は、喧嘩を最も嫌う女性だったが、突然の思いもかけない茂樹の言葉に、仰天してしまって、声を荒げた。
「何を言ってんの?わたしがそんな病気持ちの女だと思ってんの?子供ができない原因のほとんどは男の方にあるのよ!」
まさか、茂樹が今日、病院へ言って検査していたことを知らずに、美沙子も応酬した。
夫婦喧嘩も、ここまでくると収拾がつかなくなる。
茂樹は、ここで急に冷静になった。
「じゃあ、一度病院に行って、検査してもらったらどうだい。僕はいつでも応じるよ。五年も経って、妊娠する気配が全然ないのもおかしな話だと思うのも当然だからね」
茂樹が、すぐにホットになる性格であることを良く承知していた美沙子は、まったく冷静に話す茂樹に不気味さを感じた。
夫婦喧嘩というものは、痴話喧嘩と言われるように、傍から見たら阿呆臭い原因なのだが、今回だけは、ちょっと違っていた。
こんな時に、子供がいたり、正式に結婚していたりすると、面倒なことになるので、大抵は、そこで、どちらかが妥協して歩み寄るのが一般の夫婦だ。
しかし、お互いにますます冷静になっていくのだった。
特に、夫婦喧嘩になった場合、男の方が切れるのが早いのが普通だが、茂樹の冷静さに、ますます不気味さを感じる美沙子は、だんだん心に不安を感じるのだった。
「いいよ。いい機会だから、暫く実家に帰ったらどう?」
自分から、言いだしたことだけに、後には引けない美沙子だった。
『こんな時、美奈子だったら、すんなり折れるんだろうなあ』
つくづく自分の性格に嫌気をさす美沙子に、茂樹は止めの言葉を刺した。
「今日、病院で検査をして来たんだ。僕の方には、何の異常もないことが判ったよ」
冷静な美沙子も、さすがにこの言葉にはショックを受けた。
暫く黙ったままでいたが、決意した表情で立ち上がって、支度を始めた。
しかし、茂樹はまったく動揺していなかった。
茂樹の、美沙子に対する気持ちが冷めていたわけではなかったが、生来の茂樹の気性の激しい性格が出ただけだった。
美沙子も、そのことは解っていたが、子供ができない原因が自分にあると、烙印を押されたのが、実家へ暫く帰る決意をさせたのだ。
それでも、暫くの間のことだと高を括っていた。
しかし、茂樹の態度はそれ以後も変わらなかった。
「美沙ちゃん。もうそろそろ茂樹さんのところへ帰ったら?」
母親の美子が、さすがに心配して口を開いた。
「だって、茂樹さんが迎えに来てくれないのに、わたしからのこのこと帰れないわ」
美沙子は、子供が生まれない原因について、母親の美子にも何も言っていなかったが、思い切って打ち明けた。
「わたしの体が、子供が生まれない原因らしいの。茂樹さん、病院に行って検査したらしく、それで判ったんだって。何か、わたしに原因があるのかしら。お母さん、思い当たること無い?」
美子は二人の子供を産んだから、考えてみたこともなかっただけに、戸惑った。
「本当に、そんなことってあるのかしらねえ。わたしは、当たり前のように、あなたたちを産んだから、よくわからないわ。だけど、茂樹さんが、それが原因で心変わりするならちょっとおかしいわね」
美子は首をかしげていた。
美子の態度を見た美沙子は、自分が生まれてから何か異常なことがあったわけでもないと確信した。
『それなら、わたしは生まれつき、そういう体だったのかしら』
だんだん不安感が美沙子の心に襲ってきた。
「そんなに気になるなら、美沙ちゃんも、病院に行ったらどう?」
『確かに、それしかはっきりさせる方法はない。だけど他に原因がもしあったら?』
そう思うと、ますます不安になってくるのだった。
『わたしの性体験は、そんなに多くはないはず』
そう思うと、過去の男たちの顔が脳裏に浮かんできた。
一旦結婚してしまうと、女は過去のことを完全に忘却の彼方へ押しやることが出来る特技を具えている。
特に、子供ができると、もう過去のことは、まるで他人事のように思ってしまう。
だから、独身時代に男性経験を多く持つ女は、結婚してしまうと、すぐに子供を産む。
そして、過去の忌まわしい想い出と決別する。
女にとって過去の出来事はすべて忌まわしい想い出でしかない。
今しか、大事な想い出はない。
男は、今の女と付き合っていても、時折、過去の女の想い出に耽る時がある。
それが、男と女の決定的違いなのだが、美沙子は忌まわしい想い出を、苦虫を噛む想いで、一人一人の過去の男の顔を思い浮かべていた。
美沙子が、過去に体を許した男性は三人いた。
一人目の相手は、顔すら思い浮かばない程度の男で、まるで自分の性体験の実験台に使っただけの相手であった。
女にとって、やはり二番目の男が、一番想い入れが強いのだ。
考えて見れば当然で、男の初体験など、まるで予防注射を打ちに行くような気持ちで、自分の感情移入などまったくといってない。
初めての性体験では、性行為の無知さから、相手に対する感情移入などしている余裕など男にはまったくない。
結局、少なくとも相手が経験者でないと、感情移入したセックスは出来ない。
女性の場合、相手がリードしてくれれば、ある程度感情移入が出来るが、それはただ単に、相手に合わせるだけのことで、自分が心の底から相手を欲している感情ではない。
結局は、感情の篭ったセックスを出来るようになるためには、かなりの経験を積まなければならないのが、人間だけに与えられた感情移入の性行為だ。
だから、特に女の場合、二番目の相手に対する想いが強いのは当然である。
美沙子の二人目の男は、独身だったが、自分よりも十五才も年上の男性だった。
大手生命保険会社の社員で、もう既に、三十五才だったが、結婚する気持ちがまるでなかった。
性体験が豊富で、セックスを自由に楽しむには、独身に限るという考えの男だったが、彼のテクニックで、美沙子は初めて女の喜びを経験した。
しかし、美沙子も、この男との結婚のことはまったく考えなかった。
会社にいる保険勧誘員の中年女性相手に、そのテクニックを磨いていて、もうその世界から抜け出られないで、まるで性中毒患者のようだったからだ。
しかし、その男との性行為は、美沙子にとっても随喜の境地に誘われたものであったから、別れてからも、その感触は暫く忘れられなかった。
結婚の意欲が無くなった原因もそこにあった。
自己をしっかりと分析出来る女は極めて稀だが、そういう女だったら、そういう男との後なら、すぐに結婚して子供を産んでしまうことによって、女の性(さが)と離別して、女から母としての女性の人生を歩み始める。
美奈子が、まさにそうであったが、美奈子の場合は、極めて運が良かった、
相手が、すべてを理解出来る男性だったからだ。
美沙子も二番目の男と別れた後が、結婚のチャンスだったが、そこまで割り切ることが出来なかった。
そして三番目の男は、同じ銀行の、一才年上の頼りない男だった。
美沙子がリードしてやらないと何も出来ないで、目をつぶってじっとしているだけで、一回だけで、嫌気をさしてしまって、別れた。
『あの男とは、かなり濃い関係だったから、あの時に何かが起こっていた可能性があるかも知れない』
しかし、それ以上思い出すことは、美沙子には耐えられなかった。
頭を横に振って、想いを断ち切ろうとした。
「美沙ちゃん、どうしたの?」
母親の美子が心配して掛けてきた声で、ふっと我に帰った美沙子は、強烈な憂鬱感に襲われた。