第七章  思わぬことばかり

茂樹との別居生活から一週間が経って、やっと美沙子も体を動かすことが出来るようになっていた。
この一週間は、完全な鬱状態で、何もする気が起こらず、寝ているわけにもいかないので、以前の自分の部屋のベッドの上でぼっとする日が続いていた。
人間というものは、完全な病的原因が無い限り、肉体的な苦痛なら一時間も我慢出来ない、また精神的苦痛も時の経過と共に薄らいでいくものだ。
やっと、何かしなければ、という気持ちになって美沙子は、結婚以来会っていなかった美奈子に電話を掛けてみた。
美奈子は耕一との間に二人の子供をつくっていた。
一人目の子供が結婚後すぐにでき、美奈子は自分の子供を育てる喜びに浸っている暇もなく二人目もできた。
美奈子は最初、二人目を産むのを嫌がった。
一人目の子供を育てるのに専念したかったのが、その理由だったが、できてしまえば、あっさりと産むことを受け入れた。
年の離れていない小さな子供を二人育てていると、生活の臭いがしてくるはずだったが、美奈子は今でも独身女性として充分通用するぐらい、自分の体には神経を使っていた。
「まあ、美沙ちゃん。久しぶりね、お元気?」
何か、落ち着いた感じがする美奈子の応対に、『彼女はいま、幸福の絶頂なんだわ』と嫉妬心が湧いた。
「わたしは、今別居中なの。聞いているでしょう?」
ぶすっとした返事をした美沙子に返って来た言葉は予想外のものだった。
「ええ、今何て言ったの?別居と言ったの?誰と別居なの?」
まるで、とんちんかんなことを聞く美奈子は、とぼけるような性格ではないことを重々承知していただけに、ますます嫉妬の気持ちを強くした。
『もう彼女は、一般社会の人間ではなくなって、完全に妻と母の二役に没頭しているんだ』
そう思う美沙子は、美奈子の家庭を見たくなった。
「一週間前から自宅に帰ってるのよ。耕一さんから聞いてないのね。幸せそうね」
出る言葉が、自分でも嫌になるほど、妬ましい感じがする。
「どうして?喧嘩でもしたの?美沙ちゃんが喧嘩なんかするわけないわね」
美奈子の言葉に、どきっとした美沙子は、『わたしは、やはり冷めたイメージなんだわ』と、ますます自分の性格に嫌気がさして憂鬱な気分がまた襲って来た。
「家に来ない?子供が二人もいるから、ゆっくり話できるかどうかわかんないけど」
美奈子の方から誘ってくれて、救われた思いの美沙子は、「ええ、そうね。今日でも構わない?」と訊いてみた。
「ええ、もちろん。大歓迎よ」
美奈子の住まいは、代々木の上原の住宅街にあり、一戸建ての家を二年前に建てていた。
実家の吉祥寺からは、井の頭線で20分もかからない。
千葉のマンションからだったら、二時間は優にかかるところだったが、どこで幸いするか分からないものだと思った美沙子は、上原の駅を降りたところで苦笑いした。
改札口まで、迎えに来てくれていた美奈子が手を振っていた。
顔まではっきり分からないが、その容姿は、以前にも増して垢抜けして、傍に二人の子供がいても、通行人が思わず振りかえる程の美形だった。
『五年の間に二回も子供を産んだ三十女とは、とても思えない』
美沙子は五年ぶりに会った美奈子の変身ぶりに驚いた。
美奈子と違って、共稼ぎをして世間に敏感なはずの美沙子でさえ、三十才にもなると薹(とう)が立ってくるのに、専業主婦をして二人の子供までいる美奈子の瑞々しさは奇跡的とも思えるものだった。
「相変わらず綺麗ね」
思わず、素直に言ってしまった美沙子に、「本当?嬉しい!なんにも特別なことはしていないのに」
実に素直な喋り方の美奈子は、「ここから、歩いて三分も掛からない処なので、悪いけど歩いてくれる?」
「ええ、もちろん」
と答えた美沙子は、胸の騒ぎを感じた。
『一体、この胸の騒ぎは何なんだろう』
二人の小さな子供を挟んで歩いた美沙子は戸惑った。
だが、その胸の騒ぎが何だったのかすぐに解ることになる。
「ここが、わたしの家よ」
美奈子が指さした家を見て驚いた。
まさに洋風の豪邸が美沙子の目の前に忽然と現れたのだ。
余りの驚きに声も出ないで呆然としている美沙子の表情が異常だったのか、美奈子は心配して、「美沙ちゃん、どこか具合でも悪くなったの?顔色が青いわ」と声を掛けてきた。
呆然と自分を失っていた美沙子は、美奈子の声で、我を取り戻した。
「ううん。別に大したことは無いわ。実は今日から、あれが始まったの。そのせいだと思う」
突嗟の思いつきでごまかした美沙子だった。
「ああ、そうなの。それじゃいいけど。ひどく痛むの?」
美奈子は、母親になったせいか、雰囲気がマイルドになったと美沙子は、その時思った。
「ううん。大丈夫だから」
『立派な、お屋敷ね』と口まで出かかっていたのを必死で抑えて返事をした美沙子は完全に余裕を失っていた。
初めて、松涛の美奈子の実家に行った時のことを思い出した。
『あの時も、すごいお屋敷に圧倒された』
中産階級の中でも並より上の生活を送ってきた美沙子の実家も、結構立派な家であったが、まるで比較にならないものに唖然とするのだった。
一瞬、美沙子の頭にある考えがよぎった。
『杉本さんのサラリーで、これだけの家を建てれるはずがない。多分、美奈ちゃんの実家が建ててあげたのに違いない』
そう思った瞬間、少し気が楽になったのか、つい口を滑らせてしまった。
「美奈ちゃんのご両親も、こんな立派な家を建ててあげて大変ね」
以前の美奈子だったら、ここで切れていたかも知れなかったが、今の彼女は違っていた。
「ううん。わたしの実家は何もしていないわよ。耕一さんの力で建ててくださったのよ」
そう言って微笑む美奈子の表情には、耕一に対する全面信頼が窺われた。
『自分たちと、あまりの差があり過ぎる』
そう思った美沙子は、中に入るよう誘う美奈子の声も聞こえず、その豪邸の門の前で立ちすくむのだった。
気分転換のつもりで会った美奈子だったが、返って憂鬱は一層増した気分で、夕方に美奈子の家を出た美沙子だった。
「また来てね。今度は耕一さんがいる夜か、週末にもいらっしゃいよ!」
美奈子は、門の前で、明るい表情をして微笑ながら手を振っていた。
駅まで送ると言った美奈子の好意を素直に受け取れず、少しぶらぶらしてから帰ると言ったのだが、実際には、少しでも早く、美奈子と、美奈子の家から離れたかったのだ。
『同じ歳で、同じ会社に同期で入ったのに、どうして耕一さんは、あんな立派な家を建てることが出来るのか。茂樹さんとわたしは、共稼ぎして、何とかマンションのローンを返しているというのに』
美沙子の頭は混乱していた。
吉祥寺の実家に帰る気分になれず、上原の商店街をぶらぶらと歩いていたら、ふと千葉のマンションのことが気になった。
『男だから、掃除もしていないかも』と思うと、居ても立ってもいられなくなった美沙子が、気がつくとマンションの前に立っていた。
一週間ぶりに、自宅のマンションの中に入ると、『やはり、ここがわたしの家だわ。吉祥寺の実家は、もう自分の家ではない』
五年間住んでいた重みを感じた美沙子だった。
『茂樹さんに謝って帰ることにしよう』
そう思った美沙子は、玄関ホールに赤い女性の靴があったのに気がついた。
『これは、わたしの靴ではない』
一瞬、めまいをしたが、何とか歯をくいしばって、恐る恐る、赤い靴の横に自分の靴を脱いで、他人の家に忍び込むような気分で、奥のリビングルームに向った。
『女性の声が聞こえる』
もう美沙子の心臓は破裂せんばかりの状態になった。
『このまま、吉祥寺に帰ろうか、それとも・・・・・・』
『まだ会社から帰宅するには早過ぎる』
美沙子の頭の中はパニック状態だ。
日頃考えたこともないような、いろいろな事が、頭に浮かんで来る。
こういう事態になったら、必ずその事態から取り合えず逃げるのが、美沙子の性格だった。
嫌な事実を受け入れたくないのだ。
そっと、美沙子は自分の靴の横に並んでいた赤い靴を恨めしそうに見ながら、マンションの外へ出た。
外気に当たって、ちょっと落ち着いた彼女は、『フッ!』と溜息をついた。
『わたしの居ない間に、他の女を連れ込むなんて、許せない!』
パニック状態だったのが、今度は怒りの感情に変わっていった。
その時、初めて美沙子の頭の中に、『離婚』という言葉が湧いて来たのだった。
『考えてみれば、わたしたちは正式の夫婦ではなかったのだわ』
そう思うと、気が楽になるどころか、ずしんとした気分の悪い重さを強烈に感じるのだった。
そしてエレーベーターホールまで行って、ボタンを押すと、下からエレベーターが上がってきた。
そのエレベータに茂樹が乗っていたのを、外から美沙子は素早く見つけた。
一瞬迷ったが、隠れずに堂々とドアーが開くのを待った。
今度は、茂樹が気づいた。
茂樹の表情を窺ってみたが、何も変わらない。
「やあ、帰って来ていたのか。また実家に帰るのかい?」
自然な口調で喋る茂樹の態度に理解出来ないでいる美沙子は、「掃除をしようと思って来たんだけど、わたしは必要でなかったのね」
いかにも、嫌味たらしく言う美沙子の顔を見て、茂樹は大声で笑いながら言った。
「他の女を連れ込んだと、義理の妹のことを勘違いしてるのかい?あれは俺の弟の嫁だよ。一人でいるから掃除と洗濯をするために弟がよこしてくれたんだ」
と言って、まだ笑っていた。
体全身から力が抜けてしまった美沙子も、思わず笑ってしまった。
「わたしは本当に馬鹿よね。温子さんだと確認もしないで、家を飛び出してしまったの」
急に二人の間に以前のような温かい視線が戻ってきた。
「もう帰って来たらどうだい?」
茂樹の方から、きっかけをつくってくれた。
「ええ、ごめんなさい」
美沙子は、内心ほっとした気持ちと、ほんの一時とは言え、離婚ということもまで考えたほど追い詰められた気持ちからの解放感で思わず素直な気持ちで微笑んだ。
久しぶりに美沙子らしい清々しい笑顔を見た茂樹もほっとした。
『世の中のことは、自分の思惑通りには、ほとんどいかないのが当然なんだ』
三十代になって初めて体で知った真理を二人は胸に深く焼きつけるのだった。