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第八章 授かりもの 千葉市立病院の婦人科の待ち合いロビーで、美沙子は呼ばれるのを不安な気持ちで待っていた。 茂樹の言ったことを信じていたから、自分の体に問題がある可能性が強いと思っていたからだ。 「神田美沙子さん。3番診察室にお入りください」 スピーカーで自分のことを呼ばれた時、一瞬ギクッとしたが、肝を据えて3番ドアーをノックした。 「どうぞ、お入りください」 恐る恐る、顔から入っていった美沙子を、促すように婦人科の医者が、「どうぞ、こちらにお座りください」と言った。 「よろしくお願い致します」 婦人科の医者は、事務的に喋りだした。 「神田さんは、結婚なされていらっしゃるのですか?」 「はい、結婚しております」 突嗟に美沙子は何の疑問も持たずに答えた。 「おかしいですね。ご主人の名前が無いのですが」 表情ひとつ変えずに事務的に喋る医者だ。 美沙子は同棲していることを忘れていた。 仕方なく正直に話すことにした。 「同棲の形を採っていますが、実際は結婚しているのと同じです。婚姻届けを提出していないだけです」 なにを今更言っても構うことはないと思ったのだ。 「ああ、そういうことですか。わかりました。あなたの体に別に子供を産む上で障害になるものは一切ありません。だから充分子供を産めます」 最近の医者にしては、はっきりと自分の見解を言うので、美沙子は気に入った。 「あのう?!主人も検査したら異常なしと診断されたのですが」 その医者がどう言うか気になって茂樹のことを話した。「それなら、いつかはできるでしょう。それともつくり方を知らないのではないですか?」 真面目な顔をしてとぼけた質問をするので、何と返事していいかわからない。 「別に。常識範囲内でなら知っていますが」 自分でもおかしな返事だとは思ったが、相手があまりにも無表情なので、敢えてそう言ったのだ。 「常識範囲内とは、具体的には、どんな程度ですか?」 美沙子はだんだんむかついてきた。 「何をお訊きになりたいのか、よくわかりません」 きつい口調で答えた美沙子だったが、相手は全然表情が変わらない。 「避妊道具を使っておられないのですか?」 急に核心に迫る話に入られて戸惑った美沙子は、返事に窮した。 その医者は黙って依然無表情だ。 『確か、結婚したての頃は避妊していたが、いつ頃からしなくなったのだろうか、よく憶えていない。この医者のことだから、その事も訊いてくるかも知れない』 そう思って、 「いえ、使っておりません」 ときっぱり答えた。 「最初からずっとそうだったのですか?」 『ほら!やっぱり訊いてきたわ』 彼女はそこで嘘をついた。 「はい。最初から一切使っておりません」 急に、その医者の表情が変わったのを見て、一瞬美沙子はたじろいだ。 「そうですか。それなら一度ご主人と一緒に来てください。はい今日はこれで結構です」 突き放すような態度でカルテを閉じてしまった。 追い出されるように部屋を出た美沙子は後悔していた。 『嘘をみんな見抜かれていたのかしら?』 そうであるなら、せっかく銀行を休んで病院に来た意味がないと思ったのだ。 だが、どうやら自分の体も、別段異常がないことを知ってほっとしていた。 「ただいま!」茂樹の明るい声がした。 声の調子だけで、人間の心の状態まで分かるものだ。 「おかえりなさい!」 美沙子も、明るい口調で茂樹を迎えた。 「どうだった病院は?」 やはり気にしていたのだ。 「ええ。わたしも異常なしで十分に子供を産める体だって先生は言うの。それで何故できないのか訊いてみたら、子供のつくり方を知らないのでは?なんて失礼なことを言うのよ」 それを聞いた茂樹は、大声で笑った。 「その先生、なかなかユーモアがあるね」 と言って、また笑った。 「ユーモアなんて!真面目な顔をして、表情ひとつ変えないで、そんなことを言うのよ!」 それを聞いた茂樹は、今度は腹を抱えて涙を出して笑いだした。 「そんなにおかしい?とにかくもう一度ご主人と一緒に来てください。と言われて、それでお終い。もう嫌になっちゃう」 美沙子は膨れた顔をして言ったが、その表情が茂樹には、とても愛らしく思えたようで、突然、美沙子を思いきり引き寄せて抱いた。 「そんなに僕たちは、下手なんかねえ。今から実験してみよう」 と真剣な表情になって、美沙子の唇に、自分の唇を合わせた。 「食事はまだでしょう?」 ベッドで寝入ってしまった茂樹が目を醒ますと、台所で食事の用意をしていた美沙子が言った。 「ああ。腹が減ったなあ!こんなに腹が減ったのは久しぶりだよ」 とベッドから、大きな声で美沙子に言うと、「そりゃあ、あれだけ激しい運動をしたら、おなかも空くでしょう!」 いかにも嬉しそうに返事する美沙子の声を聞いて、茂樹は久しぶりに幸福感を味わった。 『別に子供なんかできなくてもいいや!』 心の中で呟いていた。 人間の心というものは、常に変わる。 それなのに、いつも同じ考えでいると勘違いしている。 自分独りだけでも、一貫した考えでいるのは不可能であるのに、ましてや複数になると倍々ゲームでいろいろな考えが交錯する。 人間社会というものは、考える力を持つことで、動物社会を支配することが出来た。 しかし、その反面、考えることで自己の中に複数の人間が住みつくようになり、それぞれが違った考えをするのに、喋る口は一つだから、言うことがころころ変わる。 それが心の正体である。 そして争いが、自己の中でも、他人との間でも生じる。 これは考える力を持った人間の最大の不幸な面である。 『別に子供なんかできなくてもいいや!』と内心思った茂樹は、それを美沙子に伝えようと思った瞬間、『いや、彼女の体も異常がなかったのだから、是非とも子供が欲しい』と正反対の考えが浮かんできて、開けかけた口を塞いでしまった。 幸福感を持った瞬間に更なる欲がもたげてくる。 その更なる欲と欲とがぶつかり合って、また相克が起こる。 考える人間というのは、どこまでも懲りない生き物である。 茂樹は、その点、若い頃から苦労をしているお陰で、学習能力がある。 台所で食事の用意をしている美沙子の背中を見て、ふと口から出た。 「その風変わりな先生のところに行って、子供のつくり方をご教示してもらおうか。僕はいつでもOKだよ」 美沙子が戻ってから、茂樹は自分のことを、「僕」と意識的に言うようにしていた。 そして美沙子のことを、今までは「君」と言っていたのだが、「美沙子」と言おうと心に決めていた。 美沙子も、微妙に感じていたらしく、背中を見せたまま茂樹に言った。 「あの時の喧嘩以来、僕と言うようになったのね。その変化が、わたしにはとても嬉しかったわ」 まな板の音が「トントン」としている中で言った美沙子の言葉に感激した茂樹は、そっと彼女のうしろに近づき、抱きしめて言った。 「子供よりも、美沙子がまず欲しい!」と言った。 今度は美沙子が感動して、茂樹の方を振り向いて、「わたしも茂樹さんが欲しい」と言って彼女から唇を合わせてきた。 結局、その夜、二人が夕食を取ったのは、午後11時だった。 「こんな時間に食事なんて、体に良くないわね。ごめんなさい」 と言うと、「何を言ってるんだ。思いきり食べて体力をつけるんだ。何か予感がする。美沙子も、どんどん食べるんだよ」 茂樹は優しく、いたわりの気持ちで美沙子に言った。 「ええ」 美沙子も、何か感じるものがあった。 一緒に生活を始めて五年目で、やっと夫婦の良さを知った美沙子は、翌日勤め先の銀行に行って、退社する由を上司に伝えた。 上司との相談で三月末退社ということになった。 あと二ヶ月ある。 茂樹に相談もせずに決めたのだが、喜んでくれると美沙子は信じていた。 それから、二ヶ月が過ぎた。 いよいよ美沙子が退社の日だった。 その夜、銀行の送別会を辞退した美沙子は、一目散に千葉に帰って、夕食の用意をして茂樹の帰りを待った。 商社マンというのは、帰宅が遅い。 客の接待、同僚や上司との付き合いで遅くなる。 人間関係だけが総てだから、付き合いが悪いと、もうそれだけで競争に負けてしまう世界だ。 それだけに、内心では競争心があっても、表面を取り繕って付き合う悲しい仕事だ。 表面的には、海外生活をして英語もペラペラの派手な仕事に見える。 派手な職業をしている人種は、お互いに匂いで判るらしい。 芸能界のタレント女性が素人世界の人間と結婚する場合、相手はほとんど商社マンなのは、匂いで判るのだ。 その日も茂樹は同僚から誘われたが、断った。 茂樹は、商社マンになって10年近くなって、この職業に疑問を感じ始めていた。 だから、仕事が終ると、付き合いを一切せずに家にまっすぐ帰っていた。 「茂樹さんに報告しなければならないことがあるの」 神妙な顔をしている美沙子を見て、茂樹は察した。 「子供ができたんだろう?」 嬉しそうに言う茂樹に、「ええ、わかっていたの?」と美沙子は驚いて、もう一つの報告を忘れてしまった。 「やっぱり、そうだったんだ!やった、やった!遂にやったんだ!」 子供のようにはしゃぐ茂樹の姿を見て、ただ微笑んでいるだけの美沙子だった。 「ああ!そうだ。もう一つ報告があるの」 茂樹は、今度は、じっとおとなしくして正座した。 「今日で、銀行を辞めることにしたの。いいでしょう?」 満面の笑みを浮かべて茂樹は黙って頷いた。 その夜、二人はほとんど言葉を交わさなかったが、まだ春には早い三月末だった家の中は、暖かさでいっぱいだった。 『自分も真剣に将来のことを考えなければならないなあ』 美沙子が銀行を辞めたのが、茂樹の気持ちにも影響を与えたのだ。 『こんな虚構の世界にいたら、人間性がおかしくなってしまう。もっと創造的な仕事ができる処に変わりたい』 茂樹の心の中で、その想いがどんどん大きく拡がっていく。 その心境の変化を、美沙子も前向きに捉えていた。 『五年も子供ができなかったことが、二人の間に一時期は溝をつくり、その溝が、また二人の間に大きな山をつくってくれた。すべては赤ん坊ができるのと同じで、授かりものなんだわ』 美沙子もやっと一人前の大人になった心境だった。 |