第九章  ヤマト誕生

美沙子は千葉市立病院の分娩室にいた。
予定より早く陣痛が始まったが、幸い茂樹が傍にいた。
陣痛が始まった時、茂樹は美沙子に「僕も一緒に入ろうか?」と言ったが、美沙子は首を横に振った。
三十才を過ぎた初産は、危険が大きいと、あのとぼけた医者から言われた彼女は、苦しむ覚悟はしていたが、それを茂樹に見せたくなかったからだ。
「頑張るんだよ。僕は外で待っているから」
寝台車で運ばれて行く美沙子を、茂樹は不安な気持ちで見送った。
分娩室のドアが閉められ、ドアの上の点灯に明かりが点いた。
それから2時間半が経過した。
茂樹はずっと点灯と睨めっこしていた。
そうすると、点灯の明かりが消えた。
一瞬、ドキッとした茂樹は、廊下をうろうろするしかなかった。
そこへ、美沙子の母親の美子が走ってやって来た。
「茂樹さん、ごめんなさい。急に陣痛が始まるなんて、わたしびっくりしちゃって」
茂樹は、美子の声が聞こえないくらい動揺していたから、美子の言葉にほとんど空返事をしていた。
「ところで、まだなの?」
美子からそう訊かれて、初めて、我に戻った茂樹は消えた点灯を見上げながら答えた。
「今さっき、分娩中という点灯が消えたんですが、誰も出て来ないのです」
それを聞いた、美子は看護婦の控え室に走って行き、一人の看護婦と一緒に戻って来た。
「さあ、茂樹さん。中に入りましょう」
腕を引っ張って茂樹を促した。
「勝手に入ってもいいんですか?」
横にいた看護婦が、「産まれた赤ん坊が、まだ泣かないらしいんです」とだけ言って、分娩室のドアを開けて、二人に入るように言った。
「お母さん。看護婦さんの言ったことは、どういう意味ですか?」
美子に不安そうに訊いた茂樹に、美子は何も言わずに、腕を引っ張って入って行った。
分娩台には、美沙子が疲れた様子で、横であのとぼけた医者が必死に、赤黒い,産まれたての赤ん坊の胸をさすっているのを見ていた。
茂樹は、何が何だかさっぱり解らず、美沙子に訊いてみた。
「一体どうしたんだい?美沙子は大丈夫なのか?」
美沙子は頷きながら、「産まれた赤ん坊が、まだ自分で息が出来ないの」
と力の無い声で答えた。
事情が解った茂樹は、ただとぼけた医者を見つめているしかなかった。
「人工呼吸器を、早く!」
とぼけた医者が、焦った様子で、横の看護婦に言った。
「はい!」
と答えた看護婦は隣の部屋から、人工呼吸器を引っ張って、走って来た。
とぼけた医者が、悲愴な表情をして、赤ん坊の口の中に呼吸器を突っ込んだ。
部屋の者はみんな、1時間以上経過したほどの、長い感覚だったが、実際には1分程度のものだった。
「オギャー」
身動きひとつしなかった赤ん坊が、急に腕を伸ばして、部屋中響くような泣き声を発した。
「やった!」
看護婦長が手を上げて叫んだ。
「ご苦労さまでした」
その看護婦長は、まず美沙子の手を握って労った。
それから、茂樹に向って、「おめでとうございます。男の子が無事出産されました」と頭を下げて礼をした。
「ありがとう、ございました」
茂樹も頭を下げて礼をしたら、美沙子の顔が見えて、とぼけた医者の方に合図を送った。
茂樹はすぐに気づいて、汗を掻いているとぼけた医者の方に向き直って、一礼して言った。
「本当に、ありがとうございました。先生のお陰で、産まれた子供が助かりました」
とぼけた医者は、初めて微笑み、感情を表に出して言った。
「いやあ、本当に良かったです。一時はどうなるかと必死でしたが、本当に良かった!」
嬉しそうに言う、とぼけた医者が、二人には名医に見えた。
出産から1週間が過ぎ、退院の日が来た。
「吉祥寺のお家に帰るでしょう?」
母親の美子が美沙子に言った。
しかし、美沙子は首を横に振って、「千葉のマンションに帰るわ。やっぱり二人の子供だから」
「あなた変わったわね」
母親として一沫の淋しさを感じた美子だが、自分の娘がようやく独り立ちしたことの方が嬉しかった。
茂樹は、この2週間、千葉のマンションに独りでいたが、決して付き合いで帰りが遅くなるようなことはなかった。
いつものように、会社が退けてマンションに帰ると、美沙子が帰っていた。
「おいおい。どうしたんだい。実家に帰るんじゃなかったのか?」
心配そうに言う茂樹に、美沙子は言った。
「わたしの帰る家は、ここしか無いの。不自由な想いをさせるかも知れないけど、ここで最初からこの子と、あなたと一緒に居たいの。ごめんなさい。後生だから、ここに居させて!」
頭を下げて訴える美沙子の心情を理解していた茂樹だったが、「だけど産後の方が大事なんだろう?」と美沙子の体を見ながら言った。
『あんなに子供を欲しかったこの人が、子供のことより、わたしの体のことを心配してくれている』
と思った美沙子の胸は熱くなった。
「無理をせず、何でも手伝って欲しいことがあったら、僕に言うと約束するなら、ここに置いてやろう」
ニヤッと笑って茂樹は言った。
「わたしは、もう専業主婦なんだから、大丈夫よ」
きりっとした表情で美沙子は答えた。
それから1週間が過ぎた。
「あなた、この子供の名前をそろそろつけてあげなくっちゃ」
美沙子から言われるまで、茂樹はまったく気づかなかった。
『普通の親だったら、出生届けを出すとか、名前をどうするかと言うのに、この人は、そんなこと全然お構いなし。わたしとの間に産まれた子供だけで十分喜んでくれている』
茂樹の子煩悩さに、そう思った美沙子だった。
「そうだったね。名前ね」
少し考えていたが、明るい表情になって美沙子に言った。
「美沙子が産んだ子供なんだから、美佐子がこの子の名前をつけてあげたらいいと思う。僕はそれで良いよ」
父親の姓を名乗るのだから、父親が名前を考えるのが普通だが、茂樹は違っていた。
父親との縁が薄かったせいか、茂樹は母親と子供の絆を大切にした。
そのことを重々承知していた美沙子は頷いた。
その夜、美沙子はずっと子供の名前のことを考えていた。
眠気が襲ってきて、そのまま眠ってしまったら夢を見た。
夢の中で、昔の侍というより、古代の高貴な男性が,彼女の前に立って笑っているのだ。
『あなたは一体どなた様ですか?』
彼女が訊いた。
『わしは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)じゃ。そなたが産んだ子供をこれから、このわしが護ってやるから、大事に育ててやれよ』
『それでは、あなた様の名前を頂いていいでしょうか?』
美沙子が訊く。
『日本(ヤマト)という名前が良いだろう』
『ありがとうございます。そう致します』
そこで美沙子は夢から醒めたが、余韻がそのままはっきり残っていた。
別の部屋で寝ていた茂樹のところに美沙子は飛び起きて走って行った。
「茂樹さん!茂樹さん!起きて頂戴!」
美沙子に叩き起された、茂樹はびっくりして、「どうしたんだ?赤ん坊がどうかしたのかい?」
心配そうに訊く茂樹に、美沙子は大きな声で言った。
「この子の名前が決まったのよ。夢の中でお告げがあったの」
普段、そういった話はどっちかと言うと否定的な美沙子が真剣な表情で言うので、茂樹も、『これは本物らしい』と思った。
「ほう、それでどんな名前なんだい?」
興味津々に訊く茂樹に美沙子は言った。
「ヤマトって言うの」
びっくりした茂樹は、聞き返した。
「日本と書いてヤマトと呼ぶの。和田日本(ヤマト)と言うのよ。良い名前でしょう?」
茂樹も気に入って、「名前まで授かったんだね。やった!」と手を上げて喜んだ。
二人で一晩中、「やった!やった!」と寝るのも忘れてはしゃぐ二人の横で、和田日本(ヤマト)はすやすやと眠っていた。