第十一章  嫌な思い出

茂樹は、その夜、久しぶりに母親のいる実家に帰った。
「茂樹さん、難儀な話の最中に悪いんだけど、いいかしら?」
自分の子供に対しても礼儀を重んじる母親は、茂樹に対しても「さん」づけで呼ぶ。
『こんな大和撫子のような、おふくろをどうして親父は棄てて蒸発したんだろう』
自分の母親から、久しぶりに「茂樹さん」と呼ばれた彼は、ふと自分が高校生の時に突然蒸発してしまった親父のことを思い出した。
「ああ、いいよ。別に僕自身の問題じゃないから・・・」
「そう・・・」
と言いながら、母親は黙っていた。
「それより、杉本さんは、もう家族を捨てるつもりなの?」
母親も、蒸発した父親のこととラップさせていると感じた茂樹は、しばらくは杉本夫婦の話をしようと思った。
「男と女のことは、当事者でないと測り知れないことがあって、第三者にはとうてい口を挟む余地はない。こちらの事情も聞くと、一方的に責めることもできなかったよ」
茂樹が高校生の時に、父親は突然失踪した。
最初は、何か事件に巻き込まれたのではと心配し、みんなで警察に捜査願いを出した。
しかし、国分町の盛り場から父親の噂が茂樹の耳に流れて来た。
父親は水商売の女に入れ込んでいたらしい。
母親に正直に言うと、ショックを受けるだろうから、茂樹は弟にも、その噂を言わなかった。
しかし、女との逃避行は間違いなかった。
茂樹は、ひとりで警察に行き、捜索願いを引き下げた。
しかし、女の勘は鋭かった。
茂樹が、東北大学に入学して、ロンドンでアルバイトを始めた時、母親は茂樹に言った。
「あの人は、国分町のひととどこかへ行ってしまったんでしょう?」
茂樹は、突然母親から詰問され、動揺した。
そして、事情を説明したのだった。
しかし、母親は、涙ひとつ流さず淡々として聞いていた。
それに比べて、今晩の母親は明らかに動揺していた。
「それより、難儀な話って何?」
話題を変えるつもりで、茂樹は母親に言った。
「あの人から連絡があったの」
「ええ!何だって!親父から連絡してきたの?」
母親は頷いた。
「それで、今何処にいるの?」
母親は動揺していた。
「東京にいるらしいわ。そう言ってたから・・・」
茂樹は思った。
『仙台まで他人の問題解決にやって来たら、今度は、自分たちの問題で東京か・・・』
気の短い性格だけに、切れそうになった茂樹だった。
「茂樹さん、あの人と東京で会ってくれないかしら。何か重い病気で苦しんでいるような気がするの。それで気が弱くなって連絡してきたんじゃないかと思うの」
『勝手な奴だ!』
唇を噛みしめながら、茂樹は呟いた。
「それで、親父は連絡先を教えたの?」
母親は小さなメモ用紙を茂樹に手渡した。
「代々木上原二丁目」と書いてあった。
『杉本夫婦の家があるところじゃないか。世間は狭いな!』
茂樹は母親に笑いながら答えた。
「明日、午後の新幹線で東京に帰りますから、その後、僕から連絡を取ってみるよ」
ほっとしたような表情で、母親は言った。
「ごめんなさいね。嫌なことを思い出させて」
茂樹は、男と女の織り成す人間模様に、つくずく無力感を味わうのだった。
それは、自分が事業に心が奪われているからで、茂樹にもポカンと心の隙間ができると、同じ羽目になることを、今の茂樹は想像することさえできなかったのだが、想像できないようなことが起こるのが人生だ。
「明日、杉本と伊達恵津子という女性と、午前中会って、それから東京に帰ります」
そう言って、茂樹は母親と並んで敷いた布団の中で、ぐっすり眠ってしまった。
その夜、驚くような夢を彼は見た。