
| 第一章 現成公案(げんじょうこうあん) |
| 第二章 摩訶般若波羅蜜 |
| 第三章 仏性(ぶっしょう) |
| 第四章 身心学道(しんじんがくどう) |
| 第五章 即心是仏(そくしんぜぶつ) |
| 第六章 行仏威儀(ぎょうぶつゐいぎ) |
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序章 ― 現代弁道(べんどう)話 道元禅師の主著、「正法眼蔵」を題材にした随筆集を書きたいと思ったのは、小著「心の旅の案内書」を書いていた最中の頃でありました。 その時、白隠禅師の「夜船閑話」も書きたい衝動に駆られましたが、まずはわたしのライフワークを仕上げることが、大袈裟に言えば、生きてきた証であると思いました。 そして、 「心の旅の案内書」は青年期をリアルに生きる方法(弁道)について、 「神の自叙伝」は壮年期をリアルに生きる方法(弁道)について、 「鬼神」は晩年期をリアルに生きる方法(弁道)について、 この一年間で書き上げることに集中いたしました。 そして、「鬼神」(後編)執筆にあたって、わたし自身の集大成を込めて、「鬼神」(後編)と正法眼蔵を同時並行して書くことが不可欠だとの結論に達しました。 「鬼神」(後編)は(前編)の勧善懲悪を徹底したテーマから、悪と善を超えたところにある何かを主人公が探し求めるテーマへと展開していくことになる訳ですが、この二元論を超えるためには、二元の本質を知り抜くことが必須だとし、そのために善・悪を徹底検証する必要がありました。それが「鬼神」(前編)であったのです。 富と貧の両方を超えるためには、富と貧の両方を知り抜かないと超えることはできません。 幸福と不幸の両方を超えるには、幸福の極地と不幸の極地を経験しないと超えることはできないでしょう。 悪と善の両方を超えるには、悪の極地と善の極地を実践してみないと、越えることはできません。 そして、超えてみて、はじめてその二元の本質を理解し、実は対極にあるものではなく、同質のものであって、個人個人の違いによって、どちらかの極だけが現象として顕れていることを知るに到るのではないでしょうか。 結局、すべての人間が生を得て、死に到る間に必ず通り抜けなければならない登竜門であるのです。 そう思ったとき、「鬼神」(後編)とリアルに生きる道(弁道)は一対のものでなければならないと確信したのです。 そして、今その弁道の緒に就きました。 道元が正法眼蔵を書く上での心得として、最初に書いた弁道話を、ここに紹介し、序章に換えたいと思います。 平成13年7月8日 新 田 論 (弁道十八話) 第一問 座禅の功徳が高大と聞いたが、何故、そうなのか 答 座禅は悟りの道に通じる最初の正門である 第二問 どうして座禅だけが、悟りへの道に通じる正門なのか 答 釈尊をはじめ、すべての西天東地(釈尊から孔子、老子に至るまで、みな座禅より得度、すなわち悟りを開いたからである 第三問 たしかに、立派な僧は座禅によりて悟りを開いたかも知れないが、一般凡夫は、やはりお経をよんだり、念仏を唱えること程度しか実践はできない。そえなのに何故、只座るだけで悟りを得ることが出来るのか 答 されば、お経をよんだり、念仏を唱えることに、いかなる功徳があると思うか。ただ舌を動かし、声をあげることで悟りの道が開けるとでも思っているのか。座禅をするということは無為ということではない。体を正しい姿勢にすることから始まる、この修行は誠もって困難な苦行なり。しかるに正しく座ることによって、天からの悟りの授けを受けること、すなわち正受することが出来るのである 第四問 法華宗、華厳宗、は大乗の究境なり、いはんや真言宗のごときは、多くの修行を経て、一回の座禅で仏法の極意を得るという、それなのに只管打座、ただ座るだけが、彼等の教えをさしおいて、優れているとすすめるのか 答 基本は修行の真偽にあり、教えの殊劣を対論するものではない。しかる万事を放棄し、一重に座禅し、迷いや情の境を超えて、凡聖の道にかかわらず、すみやかに、悟りの道に到るには、この道以外のもので肩を並べるものはない 第五問 菩薩への道は初心より学ぶところにあり、座禅もそのひとつと思うが、その中、何故に只管打座が正法と言えるのか 答 この座禅の法は、はじめ達磨大師が崇山の少林寺で九年間、壁に向かって悟りの道を極めた。その教えを纏めたのが正法眼蔵であり、これは仏法のすべての道の正門である 第六問 ならば、正しい座禅を禅定と決めつけることができるのか 答 昔からの教えはただ形骸化した教えで、誰ひとりその教えで悟ったものはいない。座禅は安楽の門である 第七問 それなら、この座禅の方法の道で証明されたい 答 いかに証明しても、愚かな人間には通用しない。それより、修養した人であればすぐに理解できる 第八問 かつて、いろいろな高僧が教えを広めようと努力したが、成功しなかったのに、何故、この教えのみが可能といえるのか 答 時節がいまだ到らなかったのだ 第九問 それでは、そういう過去の高僧たちが今おれば、この法を会得できるか 答 今おれば必ず通じる 第十問 生死の苦しみから脱落することを、古来あらゆる高僧が試みてきた。そうであるのに、ただ静かに座って一生を過ごす道がかなっているといえるのか 答 生死の苦しみから脱落しようとすることが、そもそも道から外れている。生滅に惑わされぬ心が我が身にあることを知るべきである 第十一問 罪人のものは、何とするか 答 いかなる人でも、座禅をすれば、それなりのことはある 第十二問 天台宗に真言止観の方法は、さまたげになるか 答 いまだ,両方を極めたという人物がいたと聞いたことはないが、一事に達すれば必ず通ずるものがある 第十三問 この修行は俗世の男女でもできるのか、それとも出家した者のみか 答 道を極める者に貴賎男女を問われるはずがない 第十四問 俗世にいるものは、そう簡単に無為の道に専念できないのではないか 答 ただ正師の教える道を守ればそれでよい 第十五問 この修行は末世、悪世にも通用するか 答 末世、悪世など下界に関わりない。ただただ修行すれば、それすなわち証となる 第十六問 そもそも仏法は自己にありという。これを得度の円という。それならば座禅弁道の修行は返って邪魔にならないか 答 自他を超えたところに座禅弁道の修行がある 第十七問 むかしの賢人は花を見るだけで悟るという。それならば、修行などいわんや 答 古今の悟りし人々は、すべからく、弁道の修行をしている 第十八問 この国の人は昔より仁智少ない。それでも座禅すれば悟りを得ることが出来るのか 答 この世の者は出家、在家に拘わらず、仁智少なく、迂曲なものばかりである。しかし、正信の道を歩めばたすけられるし、またたすけられた者も多い |