第五節 行仏縛縛

「教家経師論師(きょうけきょうじろんじ)等の仏道を遠聞(おんもん)せる、なほしいはく、『即於法性(そくおほっしょう)、起法性見(きほっしょうけん)、即是無明(そくぜむみょう)(法性に即して法性の見を起こす、即ち是れ無明なり)』。この教家のいはくは、法性に法性の見(けん)おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子(しゅうじ)となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。」



(解釈)
教典によって教えを説く宗派によれば、仏道とは、『即於法性、起法性見、即是無明、(法性に即して法性の見を起こす、即ち是れ無明なり)』と言う。
この教えは、仏の三身である法性の見が起こるのが法性の縛であるのに、それを言わないで、さらに無明の縛自体が法性の縛になっていることを知らない。
あはれなことであるが、無明の縛が重なることによって、菩提心を発する種子にまたなるのであり、まさに行仏とは縛の繰り返しである。


縛とは執着のことであり、悟りも嵩じれば縛が重なり、大きな執着となるのであります。