第七十二節 界量・時量・人量・凡聖量
「しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。これを界量・時量・人量(にんりょう)・凡聖量(ぼんしょうりょう)等をもて測量(しきりょう)するは、あたらざるなり。これらの量に量ぜられざれば、すなはち『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』なり。すでに三世諸仏といふ。
これ量を超越せるなり。三世諸仏、転法輪道場なるがゆえに火焔あるなり、火焔あるがゆえに諸仏の道場あるなり。」

(解釈)
従って、生きている真実とは『転大法輪』すなはち自己が自己を転じ、自己に働きかける展事投機のことであり、自己が法を転じ、法が自己を転ずるものである。
世間的量・人間的量・凡人聖人的量といった量的なもので測られるものではない。
量的でないものが、すなはち『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』の三世諸仏のことを言う。
量的なものを超越しない限り、生きている真実を会得することは能わず。


この世的とは量的なことを言い、この世的な生き方を超えない限り、質的な世界で生きることはできません。