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第八十三節 則為見我 「諸仏は機縁の逗ずる説法ありとのみしりて、諸仏聴法すといはず、諸仏修業すといはず、諸仏成仏すといはず。 いま玄沙の道(どう)には、すでに『三世諸仏立地聴法』といふ、諸仏聴法する性相あり。 かならずしも能説をすぐれたりとし、能聴是法者を劣なりといふことなかれ。説者尊なれば聴者も尊なり。 釈迦牟尼仏のいはく、 『若説此経(にゃくせつしきょう)、則為見我(そくいけんが)、為一人説(ゐいちにんせつ)、是則為難(ぜそくゐなん)』 しかあれば、能説法(のうせっぽう)は見釈迦牟尼仏(けんしゃかむにぶつ)なり、『則為見我』は釈迦牟尼仏なるがゆえに。 又いはく、 『於我滅後(おがめつご)、聴受此経(ちょうじゅしきょう)、問其義趣(もんごぎしゅ)、是則為難(ぜそくゐなん)』」 (解釈) 師が弟子の心境に応じてする説法ありと知りて、諸仏が聴くことによる説法といわず、修業することによる説法といわず、成仏することによる説法といわず。 玄沙の道には、すでに『三世諸仏立地聴法』という聴法する根本あり。 説くことのできる人を優れているとして、法を聴くことのできる人が劣っていると言ってはならない。 説く者も尊者なれば、聴く者も尊者である。 釈迦牟尼仏のいわく。 『若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す。一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す』 従って、説法するということは現実の釈迦牟尼仏であり、『則であり、為であり、見である我は』は釈迦牟尼仏である。 更に続く。 『我が滅後に於いて、此の経を聴受す、其の義趣を問うは、是れ則ち難しと為す』 説くということは、則ち真我を見ることであります。 真我を見るには、『今、ここ』にいることでしか可能ではありません。 説くも、聴くも、相手は真我の「わたし」であります。 |