第八十四節 箭鋒相拄
「しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、立地聴法これ三世諸仏なるがゆえに。諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆえに。
しるべし、三世諸仏は火焔の説法を立地聴法して諸仏なり。一道の化儀(けぎ)、たどるべきにあらず。たどらんとするに、箭鋒相拄(せんぷそうしゅ)せり。
火焔は決定(けつじょう)して三世諸仏のために説法す。
赤心片々として鉄樹花開世界香(てつじゅけかいせかいこう)なるなり。
且道(しゃどう)すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼(げんじょうこしも)。いはゆる智勝于師(ちしょううし)なるべし。智等于師(ちとううし)なるべし。さらに師資の閫奥(こんおう)に参究して三世諸仏なるなり。」

(解釈)
知るべし、是則為難という点で、若説此経も聴受此経も同じである。どちらが勝っている劣っているというのではない。ただただ三世諸仏ゆえに立地聴法であるべきである。
諸仏という限り、仏果を得た後のことである。三世諸仏ゆえに、仏となる因を得ようとして聴くのではない。
しるべし、三世諸仏は生きている真実の説法を立地聴法するものなり。ただ一つの仏道の中での教化の威儀を手さぐりして探し求める必要はない。
弓の名手が互いに相対して射たところ、箭の先と先がぴったり合って落ちなかったという。
真実を生きる覚悟を三世諸仏のために説法する。
まさに自己の真実がすべてあらわれている。
鉄の樹に花咲くことはありえないことであるが、行仏のところに仏が現成する。
真実を生きる説法を立地して聴くことで以って、結局の処は箇の什麼(なに)おか現成する。
いわゆる、「見、師と斉(ひと)しうして師の半徳を減ず。見、師に過ぎてまさに伝授するに堪えたり。

真実を生きるとは、この世をうまく生きる技法を修得するのではなく、自他一体の精神を修得することであります。