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第八十六節 法説仏行仏証仏・仏説法行仏作仏 「この道(どう)は、真箇これ晩進の光明なり。たとひ『烈焔』にくらしといふとも、『瓦天』におほはれば、われその分あり、他この分あり。瓦天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇をきらうて用那頭(ようなとう)は作麼生(そもさん)なるのみなり。 よろこぶべし、この皮袋子(ひたいす)、むまれたるところは去聖方遠(こしょうほうおん)なり、いけるいまは去聖時遠(こしょうじおん)なりといへども、瓦天の化導(けどう)なほきこゆるにあへり。いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわずらひこし。 しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法にとかれ、三世の諸法は三世に仏にとかるるなり。『葛藤窠(かっとうか)』の『風前(ふうぜん)』に『剪断(せんだん)』する『瓦天』のみあり。『一言』はかくることなく、『勘破(かんほ)』しきたる、『維摩詰(ゆいまきつ)』をも非維摩詰をも。しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。 仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。瓦天瓦地、瓦古瓦今にも、得者不軽微(とくしゃふきんび)、明者不賤用(めいしゃふせんよう)なり。」 (解釈) この道は真に最終に光明である。 たとえ烈焔という諸仏がどんなものかを自覚しないでも、天地一杯の中に外れるものはない。天地の中に生きていることが烈焔という諸仏である。 この生きている真実を嫌がって、ほかに真実を求めようとするようなものである。 喜ぶべきことは、この皮袋をかぶった人間は仏出世の所から遥かに遠いということを教えてくれている。 仏が法を説くことを聴法というけれど、法が仏を説くことを多くの不知を超えて為されるものである。 従って、三世諸仏は三世すなわち過去・現在・未来を貫いて法を説かれ、三世の諸法は仏を説かれるものなり。 『葛藤窠(かっとうか)の風前(ふうぜん)に剪断(せんだん)する瓦天のみあり』という一言はこのことを言っているのである。 維摩詰でないすべての人の真実をも、諸法すなわち自己の正体が仏を説く、法が仏を行ずる、法が仏を実証するのである。 仏が法を説く、仏が仏を行ずる、仏が仏になるのである。 天地一杯、古今通達、自己の正体を得た者は軽微なものではない。自己の正体を明らめた者は賤しい用い方は決してしないものである。 「行仏威儀」とは、仏すなわち本来の自己である「わたし」が、法を説き聴き、仏を行じるすなわち仏になり切ることによって、仏に戻るのであります。 「正法眼蔵」第六章(行仏威儀)−終り− |