第1章 夢のはじまり
夜の眠りから覚める直前まで夢を見ているのが大人であって、前の晩に眠りに落ちた瞬間に朝の目覚めが来ていた純真無垢な子供とは、まったく別人のようになってしまったのが、われわれ人間の大人です。
では、
われわれ人間の大人と子供との間に一体何事が起って、別人のようになってしまったのでしょうか?
まさに、
熟睡だけの眠りの人生を送っている人間の子供と、熟睡の後に夢の睡眠があって、その後に、目覚める朝を迎えるのが人間の大人の違いに他ならないのです。
では、
純真無垢な子供は夢を見ないのに、なぜ大人は夢を見るのでしょうか?
まさに、
文字通り、純真無垢なら夢を見ない、純真無垢でなくなったら夢を見ることを示唆しているのです。
純真無垢なら夢を見ない。
純真無垢でなくなったら夢を見る。
この事実は一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、
夢を見ることは必要悪の証左です。
言い換えれば、
夢を見ることは、本来必要のないものである証左です。
まさに、
夢のはじまりは、アダムとイヴがエデンの園を追放された物語の象徴に他ならなかったのです。
言い換えれば、
夢のはじまりは、われわれ人間の大人が錯覚の人生に嵌りはじめた象徴に他ならなかったのです。
そして、
そんな錯覚の人生を毎朝はじめるのが、われわれ人間の大人なのです。
まさに、
われわれ人間の大人の人生における生きる意味が、錯覚からはじまっているのです。
先ず、
この歴然たる事実を自覚することが、真の生きる意味を理解する第一要件に他なりません。
言い換えれば、
毎朝目が覚めた時に気づく夢のはじまりが一体どこで発生したのでしょうか?
現に、
夢のおわりは毎朝目が覚めた時に憶えているのに、夢のはじまりは一体どこで発生したのかまるで憶えていません。
なぜなら、
おわりを憶えているのだから、はじまりは必ずあるはずなのに、まるで憶えていないのはなぜでしょうか?
ところが現に、
われわれは、夢のおわりは憶えているのに、夢のはじまりは憶えていません。
ひょっとしたら、
森羅万象、おわりはあるのに、はじまりがないのかもしれません。
まさに、
宇宙のはじまりとするビッグバンなどないかもしれないと主張している所以がここにあるのです。
そうでないと、
毎朝夢のおわりは憶えているのに、夢のはじまりは憶えていないはずがありません。
では、
夢のはじまりを憶えていないのだから、ビッグバンなどないのでは?
そこで、
もし森羅万象、おわりがあるなら、はじまりがあるはずで、だからビッグバンがあるなら、なぜ、夢のはじまりを憶えていないのでしょうか?
もし森羅万象、おわりがあっても、はじまりがないから、夢のはじまりを憶えていないなら、ビッグバンなどないのでは?
もし森羅万象、はじまりもおわりもないのなら、毎朝目が覚めたらおわる夢はおわっていないのでしょうか?
以上の三つの中の一つに真理があるはずです。
まさに、
生きる意味を解く鍵がここにあるのではないでしょうか?
すなわち、
生きる意味を解く鍵とは、はじまりとおわりの意味を解く鍵と同じなのではないでしょうか?
まさに、
死(おわり)を知ったわれわれ人間の大人にとっての生きる意味とは、はじまりとおわりの意味を解くことに他ならないのです。
第2章 はじまりもおわりもない世界
自然社会の生きものや人間社会の純真無垢な子供が生きている世界は、おわりのない世界です。
なぜなら、
彼らは、最期に死ぬことを知らないで生きているからです。
まさに、
結末がわからない生放送のドラマに他なりません。
一方、
われわれ人間社会の大人が生きている世界は、おわりのある世界です。
なぜなら、
われわれ人間の大人は、最期に死ぬことを知って生きているからです。
まさに、
結末がわかっている再放送のドラマに他なりません。
では、
どちらの世界がおかしいのでしょうか?
自然社会や純粋無垢な人間の子供社会が正常で、われわれ人間の大人社会がおかしいのは火を見るよりも明らかです。
では、
なぜわれわれ人間の大人社会がおかしいのでしょうか?
言い換えれば、
最期に死ぬことを知ったことがおかしかったのでしょうか?
まさに、
文明社会を興した人類は、決して進化してきたのではなく、退化していっているのでしょうか?
それなら、
人類は必ず絶滅するはずです。
では、
そんな人類を地球はなぜ生んだのでしょうか?
表現を換えれば、
では、
そんな人類を神はなぜ生んだのでしょうか?
まさに、
二元論世界の存在所以(そんざいゆえん)が、ここにあるのです。
言い換えれば、
必要悪としての二元論世界の存在所以に他なりません。
まさに、
人類は、地球にとって必要悪の存在に他ならない証明です。
言い換えれば、
地球が必然性に基づいて自転、公転しているなら、必要悪に過ぎない人類など、まったく無用の長物なのである。
ところが、
ミクロ世界からマクロ世界まで貫く世界、すなわち、森羅万象は、偶然性に基づいているから、必要悪である人類が必要になるのです。
なぜなら、
森羅万象、すべてが確率論に基づいているからです。
まさに、
はじまりもおわりもない世界とは、確率論の世界=偶然性の世界=神の存在しない世界=必要悪の人類が存在し得る世界に他ならないのです。
第3章 強い人間原理 & 弱い人間原理
はじめに人間ありき、然るに、宇宙ありきとする考え方を科学の世界では「強い人間原理」と言います。
一方、
はじめに宇宙ありき、然るに、人間ありきとする考え方を科学の世界では「弱い人間原理」と言います。
従って、
宇宙のはじまりをビッグバンとする考え方は「強い人間原理」に基づいているわけです。
なぜなら、
最初の一撃が必要であるはじまりがある世界は、必然性の世界だからです。
そして、
最初の一撃を加える者こそ、神に他ならないからです。
そうするなら、
宇宙のはじまりをビッグバンとするなら、宇宙のおわりであるビッグクランチもなければならないはずです。
なぜなら、
必然性の世界なら、おわりがないだらだら世界は許されず、必ず最後の一撃も必要になるからです。
そして、
最期の一撃を加える者も、神でなければならないからです。
まさに、
はじまりとおわりがある世界は、神が創造した世界ということになります。
そして、
神の概念を創造した者こそ、われわれ人間に他なりません。
では、
われわれ人間を創造したのは、一体誰でしょうか?
神とは言わせませんよ!
まさに、
われわれ人間は、イタチごっこする臭いイタチ、自分の尻尾を追いかける阿呆な犬以外の何者でもない証明です。
われわれ人間を含む森羅万象を創造したのは神で、神の概念を創造したのはわれわれ人間で、われわれ人間を創造したのは神で・・・。
まさに、
はじまりがあり、おわりがある世界は、臭いイタチの世界であり、阿呆な犬の世界に他ならないのです。
従って、
「人間原理」に強いも弱いもなく、ただの「人間原理」に過ぎないのであって、問題は「人間原理」にあるのではなく、強いか?弱いか?に問題があるのです。
なぜなら、
強い=弱いが、強弱二元論の本質だからです。
言い換えれば、
強いか?弱いか?は二律背反する考え方で、二元論の本質ではないからです。
逆に言えば、
強い=弱いは補完し合う考え方で、二元論の本質がここにあるからです。
まさに、
「強い人間原理」と「弱い人間原理」は二律背反する間違った二元論に他ならず、「強い人間原理」=「弱い人間原理」で補完し合う正しい二元論なら、「強い」と「弱い」を超えること、すなわち、強いも弱いもない考え方になり、畢竟、二元要因を超えることが鍵なのです。
まさに、
一元論→二元論→三元論の過程は、始点(実在点)→円周(映像線)→終点(実在点)と同じなのです。
更に、
始点=終点だけが実在で、間の円周は映像(幻想・錯覚)という必要悪なのです。
まさに、
「人間原理」という表現そのものが、映像(幻想・錯覚)そのものであるが、それが三元論(終点)に辿り着くための過程(必要悪)であることが鍵なのです。
第4章 二元論=必要悪の存在意義
「人間原理」という表現そのものが、映像(幻想・錯覚)そのものであるが、それが三元論(終点)に辿り着くための過程(必要悪)である。
まさに、
人間の存在意義とは、必要悪の存在意義に他ならないのである。
そして、
地球上の生命体の頂点に立った人類は文明社会を築き、古代→中世→近代の先端として現代人間社会まで辿り着いたが、その原動力こそ、必要悪の存在に他ならないのである。
逆説的に言えば、
人類以外の他の自然社会の生きものは、地球と一体感を持ち、必要悪など、文字通り不要の不要善として生きてきたゆえ、文明社会を築くことなど不要だったのである。
まさに、
文明は、地球という母なる大地にとって、必要悪以外の何者でもなかったのです。
では、
地球という母なる大地にとって、必要悪は絶対に必要だったのでしょうか?
言うまでもなく文字通り、
地球という母なる大地にとって、必要悪は本質的に不要であり、相対的に必要だっただけです。
言い換えれば、
地球という母なる大地にとって、人類は条件つきで必要だっただけです。
では、
条件つき必要とは、一体何なのでしょうか?
まさに、
不要善に回帰するために必要だったのです。
まさに、
必要悪は不要善の不在概念に他ならなかったのです。
まさに、
必要悪と不要善は二元論を形成し、不要善が実在し、必要悪は不要善の不在概念に過ぎなかったのです。
では、
この事実は一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、
必要悪の存在意義に他なりません。
従って、
人類は決して万物の霊長ではなく、本来、つまり、地球にとっては無用の長物に他ならないことを、われわれ人間は自覚しなければならないのです。
まさに、
われわれ人間社会が、二元論世界=必要悪世界の社会に他ならないことが、何よりの証明に他なりません。