新 田  論 作 品 の E-book 版 紹 介

文明の進化へ

新しい時代の幕開け

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新田論の人間学書 文明の進化へ

はじめに

 

21世紀になっても一向に日本の経済は回復の兆しを見せません。

アメリカの一人勝ちで20世紀の世界経済は終わったものの、21世紀に入ってからは、アメリカ経済も怪しくなり、その規模が大きいだけに世界に与える影響は甚大なもので、ますます混沌とした世の中になってきました。

20世紀最大の経済危機であった、1920年代の終わりから30年代に起こった世界大恐慌と比較して、現象面だけを捉えますと、当時の方が遥かに深刻な状況であり、まだ現在の方がましだとの声も聞かれます。

確かに、物不足、失業者、自殺者など、それはまるで地獄絵のようであったようであります。

それに比べて、現在の状況は、物は豊かにあり、不景気と言っても贅沢品はよく売れているし、海外旅行者も依然多い現象を見ていますと、国民全般に深刻さが浸透しているようには決して思えません。

しかし、視点をもっと大きく致しますと、地球環境の悪化は当時と比べようのないほどの状況にあることは誰もが認めるところであると思います。

それと、経済のメカニズムに大きな変化があったことも見逃すことが出来ません。

当時、経済とは生き物と同じで、人為的な操作は不可能というのが常識でありました。飽くまで市場原理・原則に則した法則が働き、それは人間の持つ情念との絡みであり、理性や知性で制御できるものではないと考えられていました。

然しながら、1971年のアメリカの一方的な決定で、ドルと金との交換が出来なくなったことは、実質上も「金本位制」の廃止であり、以来貨幣経済は価値のベースになるものを失ってしまったのであります。

現在の世界経済のパラダイム変化は、この時に実は始まっていたのであります。

そしてコンピュータの飛躍的進歩により、1980年代に出現した金融商品は、貨幣の本来性である物品の交換手段を変えてしまい、貨幣そのものが物品となる博打性を強く持つ経済メカニズムに変化していったのです。

今や、経済というものは、人間の生活の基本から賭博性の強い、マネーゲームのカテゴリーになってしまったのです。

博打に必ず付きものであるのがイカサマであります。

博打は胴元が必ず勝つ。

現在の経済にも胴元がおり、イカサマが為されている。

つまり人為的なものに変わってしまったことを、我々はいまだに認識していないから、この経済の閉塞状態から抜け出せないでいると思うのであります。

今こそ、経済に対する視点を変えるべき時が来たのです。

現在の世界経済は、過去の延長線上でいくら構造改革などと言っても全く無意味なものになってしまっているのです。

新たな経済概念を以って、新しい世界経済のメカニズムを構築し、その中で、人間社会のみならず、地球レベルでの最適化を模索していかなければならない時代に我々は直面していると認識すべきであります。

新しい経済概念には、当然新しい豊かさの概念を見出さなければなりません。

今までの豊かさと違った概念とはどのようなものであるかを検証していこうとするのが本書の目的であります。

富裕とは、単にものが豊かであるという意味ではないはずです。

それでは「富裕」すなわち、人間はこのまま金持ちを目指そうとしているのか、徳持ちの時代に向かおうとしているのか」ついて検証してみようと書き始めてみたのであります。

 

2002(平成14)年1月15日 新 田 論

前半=富裕論=金持ちの時代から 徳持ちの時代へ

 

第一部 前近代経済史(経済の原点)

 

第一章 富の定義

 

財産という意味は、法律上では、「一定の目的の下に結合している経済的価値あるものの総体」であり、一般常識では、「個人または集団の所有する財の集合であり、資産とも言う」となっております。

そして財産を多く持つ者を金持ちと言う。

一方、富という言葉が意味するものは、「特定の経済主体に属する集積した財貨で、貨幣価値を以って表示されるもの」となっており、財産と富とは、一見同義語のように思われがちですが、貨幣価値を以って表示されるのが富であります。

従いまして、貨幣制度が生まれる以前から財産という概念はありましたが、富という概念は、貨幣制度が生まれるまで待たねばなりませんでした。

わたしたち現代人にとって1番の関心事は、如何に富を得るかであり、そのために、道義的のみならず、法律を破ってまで人間は富を得ようとやっきになって来ました。昨今の、法を率先垂範遵守するべき立場の役人たちの不祥事は、まさに法を破ってまで富を得たいという歪んだ想いの結果であります。

戦争も、突詰めてみれば富の奪い合いが、その原因の基にあるわけであって、物質文明の進歩によって生じる、人間の間の葛藤、相克といった問題のほとんどが富によって解決されるようになるにつれて、富の追求、つまり拝金主義が蔓延してきたのが現代ではないでしょうか。

それでは富の有無、多少の基準になっております貨幣価値、貨幣について検証してみたいと思います。

貨幣の誕生は、中国の秦の時代の古分銭がそのはじまりですが、それまでにも持ち運びが容易な円形の貨幣「古 圓法」というものがありました。

これら、貨幣の「貨」や古 圓法の「圓」の字が示す通り、貨幣の原点は貝であって、古代中国では、物々交換から一歩進んだ方法に貝が使用されたことによるもので、その後の貨幣に大きな影響を与えて来たようであります。

子供たちが、綺麗な貝を宝物のように大事にする姿を、時代が進んでも変わりなく見ることが出来るのは、人間のDNAに稀少価値あるものとして刷り込まれているからであると思います。

また、財産の「財」や寶(たから)などに貝の字が残っているのも、その証であります。

中央部に穴をあけて、紐を通す事で、持ち運びが容易になった古 圓法や古分銭は、貝という財貨が進化したもので、 それ以前にあった農工具の鋤から変化した「布幣」や、木札に書いた文字を削り取る為の刀、削刀から変化した「刀幣」などに比較して持ち運びが容易であった事もあり、広く流通していったようであります。

初期の古分銭の穴は丸く、外周は鋳放しのままでありましたが、その後角穴に変化し 外周も仕上げられる様になり、その後の貨幣形状の基本となったのです。

従いまして、貨幣制度の誕生は2,700年ぐらい前でありますから、富という概念は、その頃に誕生した訳であります。

財産という概念は、貝という寶物がその起点で、それは富という概念が誕生する遥か以前のことであることは前述した通りであります。

今日、我が国で、私たちが普段使っている通貨(四種類の紙幣、六種類の硬貨)は、品物の購入手段であるとともに、その品物の価値を見極める判断基準となっています。今日の巨大な世界経済という生き物の中の血管にあたる金融システムの核が貨幣でありますが、その地位を得るまでには様々な歴史を経てきました。

江戸時代といえば慶長小判や寛永通宝がおなじみです。しかし、実際には数多くの貨幣が鋳造され、それとともに単位も金、銀、銅の材質により複雑に分化して来ました。

日本の貨幣のあゆみは、唐の開元通宝を模倣して鋳造された和同開珎がその始まりです。平安末期から江戸時代まで無鋳銭時代が続き、多くの輸入銭と私鋳銭が市場で使われていました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は貨幣制度の統一に着手し、その翌年には慶長金銀貨が鋳造されました。そして江戸幕府は金貨・銀貨・銭貨の三種の貨幣を定め、全国通用貨幣の発行権を独占しました。これを三貨制度といいます。

金でできた貨幣は判、銀でできた貨幣は分、朱(厳密には判も分も朱も金と銀を混ぜ合わせたもので一両が4分で16朱となっていた)、銅でできた貨幣は文という単位ができ、特に金貨の小判・大判、銀貨の分銀・朱銀の流通には地域的格差が生じ、これらの貨幣の交換や流通をスムースにするために両替商が誕生する訳であります。これが現代の銀行の前身であるのです。

このようにして、我が国は、江戸時代の三貨制度の確立によって全国で統一された貨幣が使用されるようになりましたが、その後、各地の藩で藩札が発行されるようになりました。これが我が国での最初の紙幣の誕生であります。

これらの紙幣の誕生により幕府の三貨制度と各藩の紙幣が併存する特異な貨幣制度が我が国で形づくられました。

そして近代に入り、明治4年の新貨条例により貨幣単位が「圓(円)」に変わり、明治15年に日本銀行が設立され、明治18年に日本銀行券、いわゆるわたしたちがお金と言っている紙幣が発行され今日に至っています。

一方、世界に目を向けてみますと、世界で最初に紙幣が誕生したのはモンゴルであります。

紀元11世紀後半、元寇の役で有名なフビライ汗の時代に紙幣の歴史は始まりました。

貨幣には、物品購入およびサービスを得るという力があると同時に、それら広義の意味での商品の価値を計る尺度ともなり、また富を蓄積する力があります。ところが1971年以来、現在の貨幣経済は、正貨(本位貨幣)と呼ばれる事実上の価値を有する金銀貨幣を使用せずに、いわゆるニクソンショック以降世界的に不換貨幣が使用されています(金本位制度の撤廃)。

すでに30年以上継続されている、この不換貨幣とは、そもそもそれぞれの国の国家法のもとで保証された銀行券であり、それ自体に事実上の価値をもたないものであります。

現在の私たちは、この事実上価値のないお金を、相互の信用の下に使用しているのです。このお金に対する「信用」は、現在私たちが生きる社会が戦争のない平和な状況においてのみ効果を発するだけであり、幸いこの30年間「信用」を失墜する大きな戦争がなかっただけであり、まことに脆弱な経済システムと言わざるを得ません。

それは時として形而上学的世界にも通用してきました。神に捧げる賽銭制度は聖書にも書かれてあるように、紀元前6世紀から5世紀の頃に、ユダヤ教の幕屋でお祈りをする際に幕屋の前に置かれたのが始まりであります。賽銭の額は、人により時により様々ですが、神に願いをかける心は変わりませんし、今でも正月などに普段は反社会行動をしているような輩でも賽銭箱にお金を投げ入れ、1年の無事を祈っておるわけであります。

イエスが、こういった行為は本来の神の意志ではないと、当時の権力者を糾弾したことが、十字架に架けられた本当の理由であることを、みなさんはご存知でしょうか。

反社会行動をする輩が神頼みをする正月の神社仏閣の光景を見るたびに、わたしは、イエスに思いを馳せるのであります。

モンゴルで紙幣が誕生してから900年近い歴史を経て貨幣の紙幣化は世界経済の発展に大きく貢献し、紙幣化されたことにより、貨幣発行量は飛躍的に伸び、お金の流れを急速に促進して来ました。

そして20世紀の後半から、貨幣は物の交換手段と価値尺度から、そのもの自体が物・商品となり、お金の流れは、そのスピードと共にその量も爆発的に膨れ上がって、実体貨幣とは別に仮想貨幣が誕生しました。金融派生商品いわゆるデリバティブの出現であります。

この仮想貨幣で取引されるデリバティブの誕生は、実体貨幣の量を遥かに上回るもので、21世紀には貨幣制度そのものの存亡が危ぶまれることになるかも知れません。

我々現代人が、貪欲なまでに富を追い求める心は、来るところまで来た感がいたします。

わたしが、富の歴史を、何故検証してみたのかと申しますと、富とは本来、貝で象徴しているように、稀少なものであるということが原点であることを、みなさんに認識して頂きたかったからであります。

経済のバブル化は、まさに仮想貨幣の暴走から始まったものであり、仮想貨幣とは、単に人間同士の口約束に基づく「信用」取引の手段であったのです。

貝という実体ある価値貨幣であれば、バブルなど生じようがなかったのであります。

デリバティブ取引でレバレッジ(てこ)という言葉があります。

このレバレッジこそがバブルという泡をつくるために掻き混ぜる、ハンドミキサー(泡立て器)であるのです。

人間の心の中にも同じ泡立て器があります。

欲望という限りない泡を製造する化け物であります。

結局のところ、貨幣経済下での富という概念は泡という実体のないものを限りなく増大させたいと思う欲望であるのです。

富という概念が、貨幣価値を以って表示される限り、この鼬ごっこは永遠に続き、その度にバブルを発生させては破裂するという繰り返しをすることになる訳であります。

今こそ、貨幣が誕生して2,700年、「信用」に基づく紙幣が誕生して900年の歴史を持つ「富」の定義を見直す時代に入ったと言えるのではないでしょうか。

 

 

第二章 蓄積の発想

 

富とは、「集積した財貨で、貨幣価値を以って表示されるもの」と定義されていると申しあげました。

この集積するという考えが、限りない欲望をつくる原動力になっているのですが、なぜ集積しなければならないのでしょうか。

自然の中に溶け込んで生きている動物たちには、今日の糧を求める欲求はあっても、明日の糧をも求める考えはありません。

明日の糧を求めるのは欲求ではなくて、考えであって、他の動物たちは考えることはしません。必要がないからです。

それは、自ら溶け込んでいる自然に対して、明日の糧は明日になれば与えてくれるという全面的信頼を彼らは持っているからであります。

財産という概念が、「個人または集団の所有する財の集合であり、資産とも言う」とも申しあげました。

この概念は「富」という概念よりも遥か以前に、人間社会に根づいておりました。

集積、蓄積の発想が、この時に誕生したからであります。

人類が誕生した当初は、他の動物と同じように、今日の糧を狩猟によって賄っておりました。

まだ農耕知識がなかったわけです。

狩猟で得た糧は、同じ生き物を殺すわけですから、その日のうちに食べてしまわないと腐ってしまいます。従って、明日のために残しておくことは出来ないが故に他の者に分け与えるしかなかったのです。

ここには蓄積の発想が生まれようがなかった。その結果、貧富の差も生じなかった。そして分け与える結果、不平等の考え方も生まれなかったから、貧富の差から生じる支配する者と支配される者の区別もない社会であったのです。

そういたしますと、一族の長になるのは富める者が存在しないのですから、別の基準で決められることになる。

一般の動物の場合ですと、腕力の差が基準になっているケースがほとんどであります。

人類の創世記もそうでありましたが、徐々に智恵をつけてきた腕力の弱い人類はそこで武器を発見するのです。

その武器によって人類は動物の頂点に立つことができました。

そして、腕力よりも知力の方が強い基準になる訳です。

人類すなわちホモサピエンスが人間すなわちマンカインドとなって、他の動物世界から一歩進化して、自然界から旅立つのであります。

本来、人間が自然界から遊離した生活スタイルをとって生きてゆくようになったのを、性悪説的に解釈したのが、聖書に書かれていますアダムとイブのエデンの園からの追放だと、わたしは理解しています。

聖書を教典とした、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は基本的に性悪説の上に立った宗教でありましょう。

人間は罪深き存在であるから、神の命令に背いてはならないと教える一神教のこれらの宗教は、形而上学的というより、どちらかと言えば、如何にこの厳しい自然界の中を生き抜いてゆくかを教える形而下学的要素の強いもので、本質からみれば宗教というより処世訓と言った方が適切ではないかと、わたしは思うのであります。

別に宗教論争をしようと思っているのではありませんが、わたしが申しあげたいのは、人間が自然界から遊離した生活スタイルを始めたのは、より進化した生き物になるため、自然界から見送られて旅立っていったのであると解釈すべきだということであります。

狩猟型社会では腕力がものを言っておったのが、武器を持つことで知力の優位性を知った人間は怒涛のごとく知力を養っていき、遂に農耕技術を発見するのです。

狩猟型生活から農耕型生活に移行していく中で、特筆すべきことは、蓄積の概念が誕生したことであります。

農作物は備蓄が可能であることを発見した人間は、それまで生きてゆくことは危険と背中合わせであるという常識を覆してゆくのです。

危険であることは、緊張することでストレスが溜まるものです。

動物のストレスは人間など比較にならないほど強いもので、人間が普段眠っているような状態で、動物は絶対に眠ることはできません。

常に緊張の糸を張り巡らせていて、それが特に野生の動物の特性であります。

食物を蓄積するということは、危険を避け、安全を買える力を持っていることだということに気がついた人間は争うように蓄積に一生懸命の生き方をするようになった。

ここに財産の概念の種である蓄積の発想が生まれたのであります。

 

 

第三章 貧富の差の発生原因

 

蓄積の発想が人間に生じたとき、まだ人間は貧富の概念を持っていませんでした。

ただ少しでも危険な状態から安全な状態になることを望んだだけでありました。

ところが蓄積の量に個人差が生じることを人間は知ったのです。

みんなが同じだけ蓄積しておれば良かったのですが、個人差が生じた。

知力という腕力以外の能力差の存在を知ったのであります。

蓄積する量に差が生じる原因は何であるか、人間は考えました。

そして臆病の程度が蓄積量に比例することを知ったのであります。

今まで勇猛果敢に狩猟をしていた人間の蓄積量が少なく、狩をするのに怯えている人間の蓄積量が多くなる結果を知ったのであります。

そして蓄積量の多い人間が豊かな者で、蓄積量の少ない者が貧しい者となり、豊かな者は腕力が弱くても人を動かす財力を以って、腕力がありながらも貧しい者を使うことが出来ることを知るのです。

ここに支配する者と支配される者の区別が生まれたのであります。

豊かな者が貧しい者を支配する。

「腕力の強い者が弱い者を支配する」理屈は至極自然のように思われがちでありますが、実は動物の世界だけに通じる理屈であって、人間の世界での支配力は腕力ではなく知力が最大の要因であるのです。

腕力は一個人の力であり、支配力とは組織の力であり腕力を遥かに凌駕する力であるのです。

支配者個人の腕力は並であっても、組織を束ねる力を持っておれば、それは強大な支配力となるのです。

そういたしますと、非常に逆説的になりますが、臆病が故に蓄積を増大させ、その蓄積量の多さを以って組織を動かす力を発揮して支配者になる。

大胆であるが故に、蓄積の重要さを知らず、貧しくなり、臆病な人間に支配される。

実は、この自然の掟と逆説的な論理が、人間の世界に生まれた時、人間は心の中にも安全を求めるようになり、肉体上の安全と二律背反の分裂症状が起ったのです。

人間は当初、肉体的(経済的な)安全すなわち衣食住に関わる安全を求めたわけです。ところがこの経済的安定を求めるには心に知性が必要なわけです。この知性が要求する心の安全の条件は、生活上の安全を保障する条件よりも遥かに大きなエネルギーを要求するものであります。

そしてこの心の安全を求めることは、わたしたちが生活する社会との軋轢を生み、生活上(経済上)の安全を犠牲にすることになる。宗教がその典型でありましょう。

いろいろな宗教が生まれ、それぞれが心の安全を与えると保障する。そして他の宗教を異端として排斥して、あげくの果てに宗教戦争をしてお互いに殺し合う。

そういう歴史を数1,000年も続けて、何の根本的問題も解決していないのに、依然宗教が存在し、繁栄する。

何と愚かなことを続けるのでしょうか。

結局の処、人間関係において安全ということは有り得ないのです。

豊かな者が失うことを恐れ臆病になる。

貧しい者は失うことが無い故大胆になれる。

金持ちほど吝嗇になるのは臆病であるからです。

結局の処、蓄積量の多少による貧富の差が出るのは、臆病かどうかが重要な要因になっておることを認識することです。これから検証していこうとしております新しい時代の豊かさを見出す上での重要なキーワードであります。

みなさんは「臆病」という言葉から連想されるのは否定的なものが多いかと思われますが、実は「臆病さ」は知力の程度を示す重要な尺度であるのです。

わたしは、ことあるごとに度胸と勇気の違いを申しあげてきました。

度胸とは無知の増大化であり、勇気とは臆病すなわち知力の増大化であるのです。

清貧という言葉があります。貪欲という言葉があります。

貧は清らかであり、貪は醜い欲望だと言っているのだと思います。

しかし貧も貪も、同じ貝という財の上に今がついているか、分がついているかの違いであります。分という言葉には全体でないという意味があります。一方、今という言葉には全体という意味があります。

全体とは現在この瞬間に在ることであり、分とは過去や未来に囚われていることであります。

わたしは、貧富の差の発生原因は、この貧と貪との違いであると思うのであります。

蓄積の発想から、貧富が生じ、貧富の差が財の差であり、富の差となって来た過程は、人間だけにある非常に特殊な逆説的経験であることを、ここでは指摘しておきたいと思います。

 

 

第四章 知性の誕生

 

ここでは、我々人間が一体どういう過程で人類というホモサピエンスから進化したのかを辿ってゆきたいと思います。

人類は哺乳類の最も進化した動物として霊長類というカテゴリーに入る生き物です。

類人猿といわれる猿やチンパンジー、ゴリラ達は2本足動物という点で、我々の祖先である人類と同類であります。

そして類人猿の1番先頭に立っているのが霊長類である人類です。

その他の哺乳動物はほとんど4本足動物であります。

ここに知性の誕生の原点があるのです。

2本足と4本足の1番大きな違いは、地球の重力の影響と関係していることにみなさんは気がついたことがあるでしょうか。

地球上にあるものはすべて、地球が回転運動していることから生じる求心力である重力(引力)を地球の中心から受けています。

4本足の動物は4本の足に重力がかかっています。2本足の動物は2本の足に重力がかかる。

そういたしますと、4本の足の動物の中を循環しております、太陽から与えられている生命エネルギーがより多く重力に引っ張られる結果、脳を働かすエネルギーも地球の中心に引っ張られるわけです。

ところが2本足の動物になると、脳の位置が4本足の時よりも高くなるので重力の影響が減少する分、脳を働かすエネルギーが引っ張られる分も減少するわけです。

そして、その結果、脳の働きが4本足の動物より活発になり、大脳のまわりを覆っている皮質が大きくなり、4本足の動物の時の皮質の上に新しい皮質ができ、それまでの皮質と新しい皮質の二重構造になったのです。

2本足の動物でも寝る時には横になります。これは脳の働きを減少させる為であります。

霊長類には、他の動物には見られない二重構造の大脳皮質があって、新しい皮質こそが知的働きを促進する力を持つようになったのであります。

これが知的動物の誕生であります。

内側の皮質を古皮質と言いまして、本能的活動を司るのに対して、外側の皮質は新皮質と言って、理性・知性的活動を司っております。

この新皮質が最も成長してより厚くなっているのが人類であるのです。

知性の誕生は、4本足から2本足の動物への移行に伴って起ったのです。

では、何故もともと4本足だったのが2本足になっていったのか。

最初に申し上げましたように、類人猿は、動物の武器である牙と前足の爪が他のものに比べて退化しているため極めて腕力の弱い動物で、常に危険に曝されておるから、できるだけ広い視野でまわりを注意しておくことこそが生き残る術であったのです。

その結果、立ち上がるようになり、徐々に2本足に移行していったわけです。

ここにも、厳しい危険な自然界の中を弱き臆病な生き物が生き延びてゆく智恵が自然から付与されておるのです。

わたしが、臆病とは知性の発達した結果であると申し上げた理由が、おわかり頂けたでしょうか。

 

第五章 衣食住の原点

 

知的動物となった人類が、自分たちのアイデンティティーを持った時、最初に気づいたことは、自分たちが裸であるということでした。

他の動物もみんな裸であるから意識しなかったのですが、知性を持ち考えることをするようになって、他の動物との違いから自己の認識・同化をして初めて気がついたわけです。

それと、もう一つ重要な点は自己防衛という問題であります。

腕力的に劣る人類が、他の動物から如何に自己を守るかは彼らにとっては重要な問題であります。

動物の生態を観察いたしますと、弱肉強食の世界ですから、弱い動物は必ず逃げ場所を確保する。

穴を掘って、木に登って強い敵から逃れる。

住居の概念の誕生であります。ただし臆病な、かよわい動物だけに必要な概念であります。

人類もそうでありまして、洞窟を逃げ場としていたのです。

そして、夜が強い動物の狩の時間ですから、闇の中は危険なものだと思って、夜は必ず洞窟の中でじっと潜んでいたのです。

そして朝、太陽が上がって明るさを取り戻すと共に危険は去っていくものと思っていたものですから、明るさが守り神であり、それが太陽信仰という原始信仰になっていったわけです。

そして太陽信仰から、火を発見するのです。

火が、人類にとっての最初の武器であったのです。

火は敵から守ってくれると同時に、暖かさを与えてくれることを知った人類は、寒さをも知ることになります。

そして、それまで生きるとは食べることだけと思っていた人類は、食べる以外に寒さを凌ぐ衣類と、敵から守るための住居の必要性を知っていくのです。

これもやはり弱さゆえ、臆病ゆえの「必要は発明の母」であったわけです。

従いまして、弱い動物には住居の概念がすでにあったわけです。

人間が生活する上での基本条件である衣食住の概念はこうして生まれたのであります。

 

 

第六章 食物における富

第七章 住居における富

第八章 衣類における富

第九章 経済のパラダイム

第二部 近代世界の誕生

第十章 近代工業社会の生い立ち

第十一章 自由主義思想と啓蒙思想

第十二章 官僚支配体制国家の日本

第十三章 官僚支配体制を壊せ

第十四章 日本人とは

第三部 二十世紀の総括

第十五章 血塗られた二十世紀

第十六章 二十世紀の日本

第十七章 明治時代(1868-1912) 維新の元勲の功罪

第十八章 明治時代(1868-1942) 日清戦争・日露戦争

第十九章 大正時代(1912-1926) 平和な日本

第二十章 大正時代(1912-1926) 第一次世界大戦

第二十一章 昭和時代(1926-1989) 欧米帝国主義が与えた悲劇

第二十二章 昭和時代(1926-1989) 世界大恐慌

第二十三章 昭和時代(1926-1989) 第二次世界大戦

第二十四章 昭和時代(1926-1989) 中東戦争

第二十五章 昭和時代(1926-1989) 朝鮮戦争

第二十六章 昭和時代(1926-1989) 冷戦の実体

第二十七章 昭和時代(1926-1989) ベトナム戦争

第二十八章 平成時代(1989-) ベルリンの壁

第二十九章 平成時代(1989-) 湾岸戦争

第三十章 平成時代(1989-) 戦後の日本人

第三十一章 平成時代(1989-) 権力という麻薬

第三十二章 平成時代(1989-) 大阪の衰退は日本の衰退

第三十三章 平成時代(1989-) 大衆と民衆

第三十四章 平成時代(1989-) 世界の動きについて行けない日本

第三十五章 二十世紀の総括(〆)

第四部 我が国の建て直し

第三十六章 社会主義国家・日本

第三十七章 日本の大企業

第三十八章 ボーダレス社会とグローバリズム

第三十九章 足るを知る生き方

第四十章 中小企業が支える国・日本

第四十一章 新しいルネッサンス・高度情報社会

第四十二章 情報化社会とは

第四十三章 コンピユータと人間の戦い

第四十四章 高度情報化社会を人間復権社会に

第五部 世界のリーダーは、依然、アメリカか

第四十五章 冷戦の勝負はアメリカの勝ちではない

第四十六章 日本は依然階級社会である

第四十七章 今後の中国の動向

第四十八章 アメリカ ・日本・ 中国 三極構造の今後

第四十九章 貨幣制度の崩壊が間近に迫っている

第六部 新しい価値の創出

第五十章 聖職の価値

第五十一章 現代人の良心

第五十二章 宗教と信仰

第五十三章 これからの宗教と教育

第五十四章 青少年の犯罪の遠因

第五十五章 品のある政治家を

第五十六章 先ず常識の殻を破る

第五十七章 織田信長の突出した点

第五十八章 聖徳太子の祭政一致の政治を

第五十九章 日本の天皇制

第六十章 避けられない日本という国の特殊性

第六十一章 ギリシャの良寛さんヘラクレイトス

第六十二章 政治家という言葉を死語に

第六十三章 独裁と独断の違い

第六十四章 人間の良心とモラル

第六十五章 政治と為政

第六十六章 信念と信頼

第六十七章 日本丸の行く着くところ

第六十八章 政治家のモラルと企業家のモラル

第六十九章 国民のレベル

第七十章 日本の国民意識のDNA

第七十一章 聖職という職業

第七十二章 正当な評価とは

 

 

第七十三章 調和的生活による人格形成

 

最後に、この本のテーマであります、如何に徳を積む(蓄積する)か、これからの時代は、富の定義は財貨ではなく、徳の多さであることを認識して頂く為に、

近代日本の知性といわれ陽明学の大家で、師友会をつくられ日本の政界、財界に大きな影響を与えられた安岡正篤氏が、人格形成による調和的生活法を説かれた言葉を紹介して終わりたいと思います。

20世紀の日本をそのまま生きてこられた方で、天皇の終戦勅語もこの方が原稿を書かれたほどの日本の至宝であられた方であります。

 

「人格として優れた者を人物という。人物とはいかなる人格、いかなる人間内容を持つものであるか。

(気力)人格の原質ともいうべき第一は気力即ち肉体的・精神的な力である。これは案外、見てくれの身長や肉づき、外見的な体格、言動・動作に表われている向こう意気というようなものではない。むしろそういう点では振るわない、もの静かなふうであっても、事に当たると、ねばり強い、迫力や実行力に富んだ人がいる。潜在エネルギーの問題である。この気力が養われておらねば事に堪えない。せっかくの理想や教養も、観念や感傷になってしまい、人生の傍観主義者・孤立主義者・逃避主義者、あるいは卑屈な妥協主義者になってしまう。

(志操)この気力はその人の生を実現しようとする絶対者ともいうべき遺伝的創造力の活動であって、それは必ず実現せんとする何ものかを発想する。

これを理想、志という。理想、志は空想ではない。志を抱くことは、即ち生命の旺盛な実証である。その場合、気は生気より、進んで志気となる。それが現実のさまざまな矛盾・抵抗に逢うて、容易に挫折したり、消滅したりすることなく、耐久性.一貫性をもつことが「操」であり、「節」であって、志気はここに志操・志節となる。

(道義)志が立つに伴って、人間の本具する徳性や、理性・知性は、反省ということを知って、ここに我々の思惟・行為に、何がよろしいか、よろしくないかの判断を生じる。これを義という。義は実践と離れることのできない性質のものであるから、道義というのである。

(見識)我々の思惟・言動・行為について、何が義か、利か、何人もが良心的に肯定することか、単なる私欲の満足に過ぎぬことかというような価値判断力を見識(識見)という。見識は知識とは異なる。知は知性の機械的労作によっていくらでも得られるが、それだけでは見識にはならない。理想を抱き、現実のいろいろな矛盾・抵抗・物理・心理との体験を経て、活きた学問をしてこなければ見識は養われない・

(器量)そこで人間はようやく現実の生活・他人・社会・種々なる経験に対する標準が立ってくる、尺度が得られる。自分で物を度ることができるようになる。

人は形態的に言えば、ひとつの「器」であるが、これを物差しや升にたとえて、器度とか、器量というのである。「器量人」という言葉が昔からよく使われるが、つまり、多くの人を容れることのできる、内容的に言えば、人生のいろいろな悩み苦しみを受け入れて、ゆったりと処理してゆけることである。

古代、宰相を「阿衡」と称したが、阿は寄と同音で、天下が寄りかかれるだけの力をいい、衡は「はかり」の竿で、平・直を意味する。天下万民を信頼させて公平にさばくことができるという意味である。

(信念)こういう人間内容が、人生の体験を積んで磨かれてくるとともに、だんだんその理想・見識というものが、深さ・確かさ・不動性をもってくる。それを信念という。

人間人生ほどおぼつかないものはない。世は夢ということには何人も共感してきた。

金剛経の六如喝にいう「一切有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、また電の如し」である。西洋の学も何がRealであるかを尋ねて発達してきたといってよい。

人は信念を得てはじめて事実に到達する。

(仁愛)人が万物と生を同じうするところより生ずる共鳴を愛情という。

知を頭脳の論理とすれば、情は心腹の論理である。

万物と共に生きよう、物と一体になってその生を育もうとする徳を仁という。仁愛はこのおぼつかない、悩める衆生に対しては限りない慈悲となる。この慈悲仁愛の情は人格の最も尊い要素であり、信念はこの徳と相まって人を聖にする。人は智の人でなくてもよい。才の人でなくてもよい。しかしどこまでも情の人でなければならない。

(風韻)こういう人間の諸内容。諸徳が和合してくると、宇宙も生命も同じく、人格も節奏を成してくる。人間そのものがどこか音楽的なものになってくる。これは風韻・韻致・風格などと称する。

人格ができてくると、それがしっとりおちついて、柔らかく、なごやかに、声も妙韻を含んで、その全体がなんとなくリズミカルである。

人多き  人の中にも  人ぞ無き

人となれ  人となれ

という道歌があるが、人物さえできれば、人生の諸問題は難なく解決する。

国家・世界の難事も、要するに人格者が出そろわねば片づくものではないのである」

安岡正篤氏はこういった人格形成の要素を自己のものにするための日々の生活姿勢として次のような点を指摘され、生活基準にすることを薦められています。

(一)飲食は適正か

(二)毎晩、安眠・熟睡できるか

(三)心身に影響する悪習慣はないか

(四)適当な運動をしているか

(五)日常、一喜一憂しやすくないか

(六)精神的動揺があっても、仕事は平常どおり続け得るか

(七)毎日の仕事に打ちこんでいるか

(八)自分は今の仕事に適しているか

(九)現在の仕事を自分の生涯の仕事となし得ているか

(十)自分の仕事と生活に退屈していないか

(十一)たえず追求すべき明確な問題を持っているか

(十二)人に対して誠実であるか

(十三)人間をつくるための学問修養に努めているか

(十四)エキスパートになるための知識技術を修めているか

(十五)信仰・信念・哲学を持っているか

 

今まさに、こういった聖人の言葉に真摯に耳を傾けることが肝要ではないでしょうか。

 

 

前半の「あとがき」

 

「富裕論」というような大上段に構えたタイトルの本になってしまいましたが、要するに平たく言えば、世の中、金、金・金と言うが、心の美しさが一番大切なんですよ・・・、その中でも徳を積むために善行をすることですよ・・・。お金をいくら積み上げても、死ねば閻魔大王さんが取り上げてしまって、「ところでお前は、生きている間に、どれだけ他人に喜んで貰えることをしてきたのか?」と聞かれる。その時に堂々と胸を張って答えることが出来るように、日々心がけておくことが大切なんでは・・・。そのことを訴えたかったのです。

今までに、醸成してきた想いでありますから、ほとんど文を連ねる作業で済みました。

現在執筆中の6作品を途中で止めてまで、一気に書き上げ、今このあとがきを午前5時に書いております。

あの幕末の混沌とした世の中で、30才の若さでありながら自己の人生を完全燃焼させて爽やかに死んでいった吉田松陰に思いを馳せますと、今こそ彼の精神を現代日本人に伝えることが急務であると感じたからであります。

少々疲れておりますが、満足感はあります。

            2002(平成14)年1月23日 新 田 論

 

 

後半=新しい時代は本者(ホンモノ)志向の時代

はじめに

 

前半を書き終えてから10年、一人の人として「生き残る道としての新しい知性」を構築する術として、20世紀までは「組織の時代」、21世紀からは「個人の時代」と未来学者ピータードラッカーが唱えたとおりの様相になってきました。

ひとり一人の能力をアップすることで、新しい知性による価値観を構築することができれば、来る新しい時代の幕開けの舞台に日本は立つことができるでしょう。

キーワードはまさに、”新しい時代の幕開け”です。

歴史を鳥瞰すると、新しい時代が到来する時は必ず、「個人の時代」→「組織の時代」、若しくは、「組織の時代」→「個人の時代」へ移行してきたことが判ります。

文明社会の黎明期であった古代から新しい中世という時代に移行した時は、「個人の時代」→「組織の時代」へ移行したし、中世から新しい近世という時代に移行した時は、「組織の時代」→「個人の時代」へ移行したし、近世から新しい近代という時代に移行した時は、「個人の時代」→「組織の時代」へ移行したように、近代(現代)から新しい時代に移行する時には、「組織の時代」→「個人の時代」へ移行する。

まさに、

20世紀までの「組織の時代」→21世紀からの「個人の時代」へ移行する時代とは”新しい時代の幕開け”に他ならず、本著の狙いは、従来の哲学や歴史観とは全く違う角度からの視点・観点で、検証しはじめます。

2012(平成24)年4月29日 新田 論

 

 

 

第七部 人間社会からお金が消える時代         

 

 

第七十四章 文明社会を支えた最大の功労者=貨幣(お金)

 

文明社会が誕生したのは、それまでの閉鎖された洞窟で暮らす狩猟型社会に取って代わって、開放された土地を利用する農耕・放牧型社会が文明の第一の波として登場した1万2,000年前のことです。

そして、

閉鎖された洞窟で暮らす狩猟型社会にはなかった人類間の戦争が、開放された土地を利用する農耕・放牧型社会では起こった。

更に、

閉鎖された洞窟で暮らす狩猟型社会にはなかった貨幣(お金)が、開放された土地を利用する農耕・放牧型社会では誕生した。

まさに、

文明社会と戦争と貨幣制度(お金)は切っても切れない関係だったわけです。

そして、

人間社会だけにある差別・不条理・戦争は、開放された土地を利用する農耕・放牧型社会の誕生によって登場し、閉鎖された洞窟で暮らす狩猟型社会には一切なかったものです。

逆に言えば、

人類といえども閉鎖された洞窟で暮らす狩猟型社会は自然社会と一体であったことを意味すると同時に、人類が弱き肉食動物であったことを示唆し、それゆえ、開放された土地を利用する農耕・放牧型社会という雑食(肉食+草食)動物への道を選んだ結果、人類間の争い、すなわち、戦争を起こす生きものの社会・人間社会が自然社会から孤絶して誕生したのです。

更に言えば、

人類の祖先であるアダムとイブがエデンの園から追放されたとする物語は、人類が狩猟型社会から農耕・放牧型社会に移ったことを象徴していると理解すればいいでしょう。

まさに、

文明社会とは農耕・放牧型社会に他ならず、

農耕・放牧型社会が差別・不条理・戦争を生んだ張本人であり、

差別・不条理・戦争が男性社会を生んだ張本人であり、

男性社会が支配・被支配二層構造の世襲・相続制度という慣習を生んだ張本人であり、

支配・被支配二層構造の世襲・相続制度という慣習が、宗教と科学を生んだ張本人であり、

宗教と科学が悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥らせた張本人であり、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥った人間社会が文明社会を生んだ張本人であり、

文明社会が貨幣制度(お金)を生んだ張本人なのです。

更に、

文明社会の第一の波である農耕・放牧型社会の登場からパクス・ロマーナ(古代ローマ帝国の治世下の時代)が誕生し、

文明社会の第二の波である産業革命からパクス・ブリタニカ(大英帝国の治世下の時代)が誕生し、

文明社会の第三の波である情報革命からパクス・アメリカーナ(大英帝国の治世下の時代)が誕生したのです。

一方、

貨幣制度の崩壊により、パクス・ロマーナが崩壊し、

貨幣制度の崩壊により、パクス・ブリタニカが崩壊し、

貨幣制度の崩壊により、パクス・アメリカーナが崩壊するでしょう。

まさに、

貨幣制度(お金)の崩壊とは、貨幣(お金)発行の行き過ぎから起こるのです。

嘗て、

貨幣の金の含有量が極度に低下してパクス・ロマーナが崩壊し、

スターリング・ポンド発行の行き過ぎでパクス・ブリタニカが崩壊し、

USドル発行の行き過ぎでパクス・アメリカーナが崩壊するでしょう。

つまり、

貨幣(お金)発行量と交換物品(商品と呼ぶ)との量的均衡に支えられて貨幣制度が成立しているわけです。

更に、

物々交換する商品の最上レベルが金(ゴールド)であり、金(ゴールド)は、貨幣制度などなくても、あらゆる物々交換を可能にさせてくれる最も貴重な交換物品(商品と呼ぶ)であるわけです。

従って、

金(ゴールド)の保有量と貨幣(お金)発行量が均衡状態であるのが、実体経済の健全状態と言えるでしょう。

60kgの体重の人間の身体を人間社会全体(世界)とするなら、およそ70%(60kgX0.7)の42リットルの水分が世界の経済規模にあたり、その中のおよそ6リットルの血液が貨幣(お金)発行量にあたるわけです。

従って、

世界の経済規模とは、およそ3,500兆円の世界の総GDPのことだから、その1/7のおよそ500兆円程度が健康な経済状態を維持するための世界の貨幣(お金)発行量でなければなりません。

ところが、

現在の世界の貨幣(お金)発行量は10,000兆円(正常の20倍)まで膨れ上がっている。

まさに、

貨幣制度の崩壊とは、貨幣(お金)発行の行き過ぎから起こるのです。

嘗て、

貨幣の金の含有量が極度に低下してパクス・ロマーナが崩壊し、

スターリング・ポンド発行の行き過ぎでパクス・ブリタニカが崩壊し、

USドル発行の行き過ぎでパクス・アメリカーナが崩壊するでしょう。

まさに、

1万2,000年間続いた文明社会とは、貨幣(お金)社会に他ならず、行き着くところは現代人間社会が顕現しているマネ資本主義社会であり、マネ資本主義社会が文明社会の終焉を予兆しているのです。

そういう意味では、

まさに、

文明社会と貨幣制度(お金)は切っても切れない関係だった。

 

 

第七十五章 パクス・シノアはやって来るか?

 

貨幣の金の含有量が極度に低下してパクス・ロマーナが崩壊し、

スターリング・ポンド発行の行き過ぎでパクス・ロマーナが崩壊し、

USドル発行の行き過ぎでパクス・アメリカーナが崩壊するでしょう。

文明の第一の波がパクス・ロマーナを生んだ。

文明の第二の波がパクス・ブリタニカを生んだ。

文明の第三の波がパクス・アメリカーナを生んだ。

では、

文明の第四の波があって、それがパクス・シノアを生むのでしょうか?

それとも、

文明社会は第三の波までであって、その後には、新しい社会がやって来るのでしょうか?

ただはっきり言えることがある。

つまり、

この問いに対する答えは、2010年代に出るでしょう。

 

 

第七十六章 貨幣制度(お金)の功罪

 

文明社会と貨幣制度(お金)は切っても切れない関係だった。

文明社会の文明度とは、

(1)文教がすすんで人知の明らかなこと。

(2)都市化(Civilization)。

①生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等(機会平等)などの原則が認められている社会、すなわち、近代社会の状態。

②宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的・物質的所産。

を意味する。

ところが、

時代が文明の成熟期に入った近代での文明度とは、単に、物質的豊かさだけの物差しになってしまったのです。

その結果、

貨幣(お金)の功的側面ばかりに目をやるようになり、罪的側面はいつの間にか忘却の彼方に追いやられたのです。

では、

貨幣(お金)の罪的側面とは一体何でしょうか?

そこで、

先ず、理解しなければならないことがあります。

貨幣(お金)自体には功罪などそもそもない。

逆に言えば、

貨幣(お金)の概念をつくった人間の性癖として、功罪両側面をつくっただけです。

言い換えれば、

貨幣(お金)の本質(本来の在り方)とは使うものであって、貯めるものではないのです。

従って、

貨幣(お金)の罪的側面とは、“貯める”ことにあります。

逆に言えば、

貨幣(お金)の功的側面とは、“使う”ことにあります。

まさに、

貨幣(お金)を“貯める”ものを“お金持ち”と云うわけだから、“お金持ち”は貨幣(お金)の罪的側面の表出に他ならないのです。

一方、

貨幣(お金)を“使う”もの、すなわち、“貯めない”ものを“貧乏”と云うわけだから、“貧乏”は貨幣(お金)の功的側面の表出に他ならないのです。

まさに、

二元論的表現をすれば、

“貯めるもの”と“貯めないもの”は表裏一体の関係であり、

“貯めないもの”が実在で、“貯めるもの”は“貯めないもの”の不在概念に過ぎないのである。

言い換えれば、

“金持ち”と“貧乏”は表裏一体の関係であり、

“貧乏”が実在で、“金持ち”は“貧乏”の不在概念に過ぎないのである。

その結果、

人間社会だけが、在りもしない(不在概念)“貯めるもの”を追い求め、本来実在する“貯めないもの”を避けるという勘違いの人生を送る羽目に陥ったのです。

言い換えれば、

人間社会だけが、在りもしない(不在概念)“金持ち”を追い求め、本来実在する“貧乏”を避けるという勘違いの人生を送る羽目に陥ったのです。

まさに、

人間社会だけが、在りもしない(不在概念)貨幣(お金)の罪的側面を追い求め、本来実在する貨幣(お金)の功的側面を避けるという勘違いの人生を送る羽目に陥ったのです。

まさに、

貨幣(お金)の罪的側面とは、在りもしない(不在概念)“金持ち”を追い求める点にあったのです。

 

 

第七十七章 貨幣(お金)の虚構性

 

貨幣(お金)の罪的側面とは、在りもしない(不在概念)“金持ち”を追い求める点にあった。

逆に言えば、

貨幣(お金)の功的側面とは、本来実在する“貧乏”を避ける点にあった。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

まさに、

現代社会が直面している仮想マネに基づく仮想経済は、在りもしない(不在概念)“金持ち”を追い求める余り、人間が考え出したものだったのです。

本来実在する“貧乏”に基づく実体(実在)経済なら、経済規模に沿った実体マネしか人間社会に流れなかったはずです。

まさに、

60kgの体重の人間の身体を人間社会全体(世界)とするなら、およそ70%(60kg×0.7)の42リットルの水分が世界の経済規模にあたり、その中のおよそ6リットルの血液が貨幣(お金)発行量にあたるわけです。

従って、

世界の経済規模とは、およそ3、500兆円の世界の総GDPのことだから、その1/7のおよそ500兆円程度が健康な経済状態を維持するための世界の貨幣(お金)発行量でなければならない。

ところが、

現在の世界の貨幣(お金)発行量は10,000兆円(正常の20倍)まで膨れ上がっている。

更に最悪なのは、

仮想マネは総発行量の10,000兆円(正常の20倍)の更に100倍以上に電子マネとして膨れ上がっている。

いわゆる、

レバレッジ(テコ入れ)をかけているわけです。

詰まる処、

500兆円が正常な貨幣の発行量でなければならない世界経済なのに、発行された貨幣の量はその20倍の10,000兆円(1京円)、更には、電子マネという仮想マネはその100倍の100京円(100万兆円)にまで膨張しているのが、現代の世界の金融市場なのです。

まさに、

虚構の貨幣(お金)が生みだした虚構の金融世界なのです。

 

 

第七十八章 影の薄い実体貨幣(本位貨幣)

 

貨幣の本来の在り方を以って本位貨幣(Standard money)と言い、金(Gold)との交換が可能な価値あるものです。

3,500兆円の世界経済規模(世界の総GDP)に対して、500兆円が総発行貨幣量(本位貨幣)であるべきところ、10,000兆円(1京円)の総発行貨幣量では、およそ、本位貨幣ではなく、虚構貨幣と言わざるを得ない上に、更には、1,000,000兆円(100京円)の電子貨幣が恰も実体貨幣として金融市場でその地位を誇っている現在の世界経済では、まさしく、幻想貨幣と言うべきでしょう。

世界の先進国の殆どが財政赤字を生み出すという、民間企業ならとうに破産しているはずの状態がもう四半世紀も続いているのは、一体何故でしょうか?

1,000兆円という一国の財政赤字としては最大級のアメリカと日本ですが、本位貨幣経済では、60kgの体重のおよそ70%(60kg×0.7)の42リットルの水分のうち20リットルが血液という死に体状態なのに、虚構貨幣経済では、10,000兆円×7=70,000兆円の水分(経済規模)のうちの2,000兆円とは、6リットルの

血液量のうちの1.2リットルの出血であり、致死量に未だ到らないであろうし、幻想貨幣経済では1,000,000兆円×7=7,000,000兆円の水分(経済規模)のうちの2,000兆円とは、6リットルの血液量のうちの0.012リットルの出血はかすり傷程度のものになる。

まさに、幻想貨幣経済では、各国の財政赤字などしょせんかすり傷程度のものと判断されているのではないでしょうか。

 

 

 

第八部 文明社会の終焉

第七十九章 文明社会=小智社会

第八十章 大義社会

第八十一章 大信社会

第八十二章 小礼社会

第八十三章 大仁社会・大徳社会

第八十四章 小智社会から大徳社会へ

第八十五章 文明社会の正体

第八十六章 文明社会の次に目指すべき社会は信明社会

第八十七章 義明社会

第八十八章 仁明社会

第八十九章 徳明社会

第九十章 聖徳太子の十七条憲法

第九部 立体的(三次元)歴史観

第九十一章 三種類のお金(Money)

第九十二章 文明の波=お金(Money)の歴史

第十部 映像の映像世界

第九十三章 現実世界と虚構世界と幻想世界

第九十四章 現代社会の人間の一生は仮想(映像)人生

第九十五章 仮想(映像の映像)人生の正体

第九十六章 実人生V.S.仮想(映像)人生

第十一部 逆さま社会&正さま社会

第九十七章 人生は映像

第九十八章 仮想人生は虚像(映像の映像)人生

第九十九章 現実社会=逆さま社会&仮想社会=正さま社会

第十二部 円回帰社会

第百章 自然社会→人間社会→超自然社会

第百一章 始点と終点の違い

第百二章 超自然社会における価値観(新しい考え方)

第十三部 仮想社会=循環社会

第百三章 円回帰社会は映像(現象)社会

第百四章 映像(現象)社会=映像の映像社会

第百五章 実在社会(自然社会)&映像の映像社会(新しい人間社会=超自然社会)

第百六章 事実→真実→真理

第十四部 四次元循環社会=仮想社会(映像の映像社会)=真理社会

第百七章 事実社会&真実社会&真理社会

第十五部 電子マネー社会≡真理社会

第百八章 現代幻想社会は真理社会を超えて等しい社会

第十六部 貨幣制度の崩壊

第百九章 紙幣(お金)は間もなく消える

第百十章 貨幣制度の崩壊

第十七部 形のあるお金→形のないお金

第百十一章 有限マネー&無限マネー

第十八部 お金(貨幣)の歴史

第百十二章 形のないお金の生みの親=情報化社会

第百十三章 利子のつくお金&利子のつかないお金

第百十四章 お金(貨幣)の歴史=文明社会の歴史

第十九部 利子=利益の概念=差別意識

第百十五章 男性社会だけにある差別意識

第百十六章 超格差社会時代か?

第二十部 超格差社会≡超平等社会

第百十七章 逆さまの逆さまは正さま

第二十一部 超格差社会か?

第百十八章 逆さま社会の極み

第百十九章 希望の2010年代か?

第二十二部 超平等社会か?(希望の10年)か?

第百二十章 逆さまの逆さまは正さま

第百二十一章 希望の10年の可能性

第二十三部 超文明社会がやってくる

第百二十二章 一元論社会→二元論社会→三元論社会

第百二十三章 間違った二元論社会=好いとこ取りの相対一元論社会

第百二十四章 人間社会の終着駅=超文明社会

第二十四部 超経済社会

第百二十五章 肉食系から草食系へは進化か?退化か?

第百二十六章 文明社会は農耕型肉食系社会

第百二十七章 文明社会は肉食系社会

第百二十八章 超文明社会は草食系社会(女性社会)

第百二十九章 超経済社会=超文明社会=草食系社会(女性社会)

第二十五部 国家・政治・経済のない社会

第百三十章 文明社会は二元社会

第百三十一章 超文明社会は三元社会

第二十六部 国家のない世界

第百三十二章 国家の概念

第百三十三章 実在性のない国家

第百三十四章 国家のない世界

第二十七部 政治のない世界

第百三十五章 政治の概念

第百三十六章 実在性のない政治

第百三十七章 政治のない世界

第二十八部 経済のない世界

第百三十八章 経済の概念

第百三十九章 実在性のない経済

第百四十章 経済のない世界

第二十九部 超個人の時代

第百四十一章 「個人の時代」と「組織の時代」を繰り返す文明社会

第百四十二章 「個人の時代」と「組織の時代」を超える超文明社会

第百四十三章 「個人」と「超個人」の決定的な違い

第百四十四章 「個人」を超える「超個人」の真の意味

第三十部 常識/非常識から超常識へ

第百四十五章 常識/非常識の間違った二元世界

第百四十六章 常識/非常識の正しい二元から超常識へ

第三十一部 超える時代

第百四十七章 常識/非常識を超える

第百四十八章 不完全な知性から完全な知性へ

第百四十九章 潜在能力の意味

第百五十章 万物の霊長の資格のない人間

第百五十一章 万物の霊長社会の所以

第三十二部 新人類の時代

第百五十二章 無知的生きもの=人類

第百五十三章 不完全な知的生きもの=人間

第百五十四章 完全な知的生きもの社会とは?

第百五十五章人類(Mankind)→人間(Human being)→新人類(Womankind)

第百五十六章新人類(Womankind)への道

第三十三部 いよいよ女性社会

第百五十七章 やっと正常な人間社会の時代が到来する

第百五十八章 メス社会&女性社会

第百五十九章 メスの潜在能力&オスの潜在能力

第百六十章 人間の潜在能力

第百六十一章 いよいよ女性社会がやってくる

第三十四部 女性の仕事

第百六十二章 女性の役割&男性の役割

第百六十三章 戦争は男性社会の十八番(おはこ)

第百六十四章 差別・不条理・戦争は男性社会の十八番(おはこ)

第百六十五章 差別・不条理・戦争のない社会をするためには

第百六十六章女性社会は女性の仕事によって

第三十五部 21世紀における仕事の概念

第百六十七章 世紀までの常識=21世紀からの非常識

第百六十八章 差別・不条理・戦争は20世紀までの常識

第百六十九章 支配・被支配二層構造の世襲・相続制度社会は20世紀までの常識

第百七十章 21世紀からの常識

第百七十一章 女性の仕事の核

第百七十二章男性の仕事の概念V.S.女性の仕事の概念

 

 

 

 第三十六部 新しい時代の幕開け

 

 

 第百七十三章 新しい時代の中心は女性社会

 

12,000年間続いた文明社会は男性社会でしたが、まさに、男性社会の時代の終焉が間近に迫っています。

そして、

男性社会(文明社会)は、古代奴隷社会→中世封建社会→近世絶対王政社会→近代民主主義社会と辿る中で、個人の時代と組織の時代を繰り返しながら、現代までやってきました。

そして、

近代民主主義社会の延長線として現代情報化社会に辿り着いた結果、新しい時代の幕開けの時代を迎えたのです。

ところが、

新しい時代は、古代奴隷社会→中世封建社会→近世絶対王政社会→近代民主主義社会→現代情報化社会の延長線にあるものではありません。

つまり、

新しい時代の社会は、文明社会の延長線にはない。

まさに、

新しい時代の社会は、超文明社会なのです。

そして、

超文明社会では、個人の時代と組織の時代を繰り返すのではなく、個人の時代が永続する社会なのです。

そして、

個人の時代の中心は女性になるのです。

まさに、

新しい時代の中心は女性社会に他なりません。

なぜなら

従来の文明社会とは

①支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会、

②宗教・科学が横行する社会、

③男性社会、

を三辺にしたトライアングル社会だったからです。

一方、

新しい時代の超文明社会とは、

①支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会を超えた価値観、

②宗教と科学を超えた価値観、

③悩みや四苦八苦、挙げ句の果ての、死の恐怖を超えた価値観、

④差別・不条理・戦争のない社会、

を四辺にして、

⑤女性社会を中心、

にしたスクウェアー(正方形)構造の社会になるからです。

言い換えれば、

新しい時代の超文明社会とは、

①均質構造の実力主義の平等社会、

②民主主義と哲学が主役の共和制知恵社会、

③悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた社会、

④平等・公正・平和の社会

を四辺にして、

⑤女性社会を中心、

にしたスクウェアー(正方形)構造の社会になるからです。

 

 

第百七十四章 新しい時代の新しい価値観

 

自然社会(地球・宇宙)とは、すべての事象(森羅万象)が一枚のコインとして表現できる超世界に他なりません。

では、

すべての事象(森羅万象)が一枚のコインとして表現できる超世界とは、一体どんな世界でしょうか?

そこで、

先ず一枚のコインの本質を理解しなければなりません。

(1)一枚であることとは、唯一の世界である=一元論世界だけが実在する。

(2)コインであることとは、表と裏の二面性を持つ世界であること=二元論世界として表現(映し出すことが)できる世界であること。

(3)表裏一体である=表面と裏面を引き剥がすことができない世界であること=三元論世界として理解(体現)しなければならない世界であること。

従って、

差別と平等は正反対(二律背反するもの)ではないことを理解する。

逆に言えば、

差別と平等は補完関係にあることを理解する。

まさに、

差別と平等を超える考え方とは、差別と平等が補完関係にある考え方である。

まさに、

新しい時代の新しい価値観とは、超理論に他ならない。

 

 

第百七十五章 新しい考え方=善と悪を超える理論=超理論

 

自然社会(地球・宇宙)とは、すべての事象(森羅万象)が一枚のコインとして表現できる超世界に他ならない。

すなわち、

自然社会(地球・宇宙)には、善の観念も悪の観念もありません。

だから、

食う(殺す)ことにも、食われる(殺される)ことにも、善悪の観念(罪意識)など毛頭ありません。

ところが、

人間社会には、善悪の概念(罪意識)が強くあります。

そして、

一般に世間で言われている差別主義者、すなわち、差別だけして平等をしない連中の方が悪者(偽悪者)と呼ばれている。

一方、

一般に世間で言われている平等主義者、すなわち、平等だけして差別をしない連中の方が善者(偽善者)と呼ばれている。

ところが、

悪者(偽悪者)が実在で、善者(偽善者)は悪者(偽悪者)の不在概念に過ぎないのが宇宙の真理なのです。

従って、

新しい時代の新しい価値観とは、善者(偽善者)も悪者(偽悪者)も超える考え方=超理論になるでしょう。

言い換えれば、

新しい時代の新しい価値観=超理論とは、偽者(ニセモノ)を超えなければならない考え方に他なりません。

逆に言えば、

新しい時代の新しい価値観=超理論とは、本者(ホンモノ)志向の考え方に他なりません。

 

 

第百七十六章 新しい時代は本者(ホンモノ)志向の時代

 

新しい時代の新しい価値観=超理論とは、本者(ホンモノ)志向の考え方に他なりません。

そして、

偽者(ニセモノ)とは、決して悪者(偽悪者)だけではなく、善者(偽善者)も偽者(ニセモノ)であることは言うまでもありません。

まさに、

善か?悪か?を問うこと自体が偽者(ニセモノ)の証明に他なりません。

言い換えれば、

善も悪も超えたところに本者(ホンモノ)の本領があると言ってもいいでしょう。

では、

善も悪も超えるとは一体どういう状態なのでしょうか?

まさに、

意識的であることを超えると言うのです。

従って、

意識して善を為すことも、意識して悪を為すことも、本者(ホンモノ)の為すことに他なりません。

逆に言えば、

無意識で善を為すことも、無意識で悪を為すことも、偽者(ニセモノ)の為すことに他なりません。

まさに、

本者(ホンモノ)とは、何事をも意識して生きている人に他なりません。

一方、

偽者(ニセモノ)とは、何事をも無意識で生きている人に他なりません。

そして、

人(ヒト=人間=人類)といえども地球(自然社会)の一部であり、一瞬たりとも無意識で存在することは許されません。

なぜなら、

地球(自然社会)も自転・公転という運動する存在である限り、意識ある存在であるからです。

つまり、

意識があるということは運動している(動いている)ことに他ならないからです。

従って、

人(ヒト=人間=人類)も本来、意識ある存在です。

言い換えれば、

まさに、

本者(ホンモノ)とは、何事をも意識して生きている人に他ならない。

一方、

偽者(ニセモノ)とは、何事をも無意識で生きている人に他ならない。

そして、

自然社会の生きものはすべて意識して生きている。

だから、

彼らは殺す行為を悪いとも善いとも思っていません。

ただ、

意識して殺しているだけです。

なぜなら、

食べる(殺す)ためにだけ殺しているだけで、満腹しておれば決して食べる(殺す)行為をしないのは、意識して殺しているからに他なりません。

一方、

人間社会の生きもの(ヒト=人間=人類)は、無意識で生きている。

だから、

彼らは殺す行為を悪いと思っています。

ところが、

無意識で殺しています。

なぜなら、

食べるために殺しているだけではなく、満腹していても殺す行為を止めないのは、無意識で殺しているからに他なりません。

まさに、

殺人がそうであり、戦争行為は無意識の殺しの極み行為でありながら、戦争でいくら殺人をしても罪に問われないのは、人間社会の法(憲法や法律)が、自然社会に適用されるものではない証明に他なりません。

まさに、

本者(ホンモノ)とは、何事をも意識して生きている人に他ならない。

一方、

偽者(ニセモノ)とは、何事をも無意識で生きている人に他ならない。

 

 

第百七十七章 新しい時代の幕開けは本者(ホンモノ)によって為される

 

12,000年間続いてきた文明社会は、何事をも無意識で生きている偽者(ニセモノ)によって維持されていた社会でした。

つまり、

男性社会は偽者(ニセモノ)社会でした。

一方、

新しい時代の超文明社会は、何事をも意識して生きている本者(ホンモノ)によって維持される社会でしょう。

つまり、

女性社会は本者(ホンモノ)社会でしょう。

  

 

 

新しい時代の幕開け この本の奥付ページ
新田論の人間学書 文明の進化へ

おわりに

2002(平成14)年1月に執筆した「富裕論」を前半に、そして、2012(平成24)年を「新しい時代の幕開け」を後半にして、文明社会が陥っている「富裕論(金持ちの時代から 徳持ちの時代へ)」の変遷を10年間にわたって検証をしてきました。

その結果、

まさに、20世紀は”新しい時代の幕開け”に相応しい世紀になりそうです。

そして見えてきたキーワードは「個人の時代」と「女性社会」になり、この世紀は「まさに本者(ホンモノ)志向」の時代になるようです。

 

2012(平成24)年10月26日 新田 論

 


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