新 田  論 作 品 の E-book 版 紹 介

小説

信  長

信長 この本の内容詳細ページ 
新田論の一般書 小説

(あらすじ)

信長がもう十年長く生きていたら日本は被爆国にならなかった

信長がもう十年長く生きていたら黒人奴隷は生まれなかった

信長がもう十年長く生きていたら人種差別は生まれなかった

信長がもう十年長く生きていたら世界戦争は起こらなかった

信長がもう十年長く生きていたら今の日本にはならなかった

 

1582年に天下統一を果たした信長は、京都の本能寺で明智光秀の裏切りに遭って自害した。享年49才であった。

天下統一を果たしてから十年強の間に彼の為したことは、400年の時間と空間を越えて今でも燦然と輝く。それも日本という島国だけではなく地球レベルの空間と四百年という時間を串ざしにした驚くべきものであった。

その信長が黒人奴隷の弥助に本能寺で救出され、その後10年、更に生き延び、世界に飛躍していく勇姿が最後に見せる大舞台は白人社会の本山だ。

 

そして最後に見せる自己完結の凄まじさで余分の10年の区切りをつけた。

 

 

序 章

 

織田信長は日本史上最も偉大な英雄と云えるだろう。

彼は1582年に京都の本能寺で家来の明智光秀に裏切りの奇襲を受け、自害した。

しかし、彼の死によって日本の近代化が約300年遅れたことは確かだ。

歴史に "もし"はないが、もしと、敢えて言うなら、彼が光秀の裏切りから逃れ、生き残れていれば、日本の近代化は3世紀以上早まり、欧州諸国よりも近代化は先に進められ、結果、その後の歴史が示すような、欧米列強による植民地帝国主義の世界的悲劇を食い止めることが信長によって出来たかもしれない。

これからのストーリーは世界的レベルの英雄、信長が生き延びたらという仮説をベースに、日本のみならず世界の歴史にどういう変化が起きたかという推論を展開してみる試みである。

読者の方々に悠久のロマンをよりリアルに味わっていただく為に、歴史上の人物をフィクションでありながらも実名を使わせてもらった。

過去300年以上の間に起きた帝国主義国による弱小国支配の歴史的悲劇を、信長だったら如何に避けることが出来、世界の平和の実現に影響を与え得たかを大胆に展開してゆきたい。

特にアフリカの奴隷制度からはじまった黒人差別問題は、今なお暗い影を残し続けている。

信長の生存中のやり方をよく理解すれば、この黒人問題も、それ以外の同じ人間でありながら生まれたときから差別を受ける多くの世界で起きている差別問題も、避け得た、あるいは解決し得たかも知れないヒントが多く見えてくるような気がしてならない。

 

 

第一章 本能寺の変

 

1575年。 信長はライバルで最強の武田軍団を打ち破って京都に上洛してから10年の歳月が経っていた。

上洛の意味するところは、都の京都に住む天皇に取って替わって、天皇の名の下で京都を治めることであった。この意味は他の大名諸侯に対して、日本の実質的支配者は誰であるかを公に示す重大な出来事とされてきた。信長が日本を統治してきたこの10年間に旧態依然たる制度を果断に打ち破り、近代化の礎をかなり創ってきたことは、当時の世界が、日本も含めて中世の暗黒の世界から未だ抜け得ていない状態にあっただけに奇跡的なことと言わざるを得ない。

信長が、悪魔の化身と言われたのも、当時としてはあまりにもユニークな彼の発想にあって、同時代の武将には到底真似の出来ない政策を展開し、また実際実現させたところにある。彼の実行した中には、単に国を治める方策だけではなく、経済活動が人間社会に一番影響力があることを見抜き且つ実践しようとしたことが、その抜本的政策にも表われている。そういう意味で1582年という年は日本という国のみならず、世界の近代化への最初のチャレンジが成功するかどうかの分水嶺であった年と言っても過言ではない。

これからのストーリーは信長が光秀の奇襲から逃れ、安土に戻ったときから始まる。

光秀が本能寺を襲撃した1582年6月2日未明、信長は 森蘭丸から、光秀の奇襲だと聞いて覚悟した。

「是非もなし」と言って自害しようとするのを、弥助が止めに入った。

弥助は、フロイスから信長に献物として差し出された黒人奴隷だった。

何ゆえ 肌の黒い人間が奴隷にされたのかをフロイスから聞かされて信長は

フロイスに言った。

「お前の住むヨーロッパという国の人間の肌は白いと聞いたが、それは、お前のくれた地球儀を見れば北の端にある地域だと、必然 太陽の光の恵みを受ける時間が、地球の赤道地域よりも遥かに少なくなる。黒い肌の人間は太陽の光の恵みを多く受けているから、生理学的に肌が黒くなるのは当たり前ではないか。しからば、何故 太陽の光の恵みの少ない人間が恵みの多い人間より優れているのか、合点が行かぬ。反対ではないのか」

この理屈を聞いたフロイスは、

「何という素晴らしい知性を持った人物だろう。この地球儀から、太陽と地球の相関性を見抜くとは」と驚愕した。

この話を聞いていた弥助は、信長に心酔した。

「こんな人が、どうしてヨーロッパの国にいなかったんだろう。そうしたら自分たち黒人も奴隷にならなくてすんだはずだ。この人のためなら命をかける価値がある」と弥助は思った。

「何としても、信長様を助け出さなければ」弥助は主人であることも忘れて

信長の頭を後ろから殴った。気を失った信長を抱きかかえ、蘭丸に信忠様ほか家族の方々を連れてくるように指示した。そして女性陣の一団をつくり、その中に信長他一族をもぐり込ませ、正面突破を図った。

正面から悲鳴をあげて、逃げ出してきた一団を見て、光秀は家来達に追うことをさせないで、逃げるのを見逃した。

「光秀の心の優しいところだ。わしであれば 見逃さないのに」と女性の着物を被りながら逃げ去る信長は、馬上の光秀に手を合わせた。

先ず、信長はこの裏切りに対する報復手段を単に光秀のみならず全土レベルで展開した。というのは、この様な大胆な裏切りを光秀独りで出来る程、光秀に度量はないことを信長は知り抜いていた。その背後に必ず影の支配者がいる。そしてそれが、当時の正親町天皇と取り巻きの公家衆であるということも察していた。

天皇に永久追放を命じたのだ。

今までにも、上皇や天皇を島流しにした鎌倉幕府執権の北条義時や北条高時がいたが、天皇を永久追放させるようなことは、まさに前例のない、日本にとってはタブー的行動であった。他の世界ではこのようなことは常識なのだが、日本では一度もなかったことであった。

厳しい報復を実行完了したと同時に信長は中国を征服する計画に着手した。

秀吉は信長のNo.1の家来になっていたが、光秀による裏切りの奇襲の時、信長の命により毛利一族を攻めており、毛利の降伏を促している最中であった。

一方信長と同盟を組んでいた家康はちょうどその時、堺に数人の家来と逗留していた。光秀の攻撃が自分にも及ぶ危険性を感じ、とにかく堺から伊吹山中を抜けて伊勢に逃れようとした。そして7日目に何とか自身の領に入ることが出来た。そして、光秀討伐の旗を揚げようとしたとき早馬からの報告が入った。

信長は生き延びて、素早く光秀を逆襲し彼を捕らえ、体を八つ裂きにして鴨川の河原に晒した。秀吉は信長の傍で、この地獄絵を見た。

まさにこれが信長流であり、日本史上ここまでの厳罰をする武将は彼以外にはなかった。

だが、彼のやり方は、外国では当然のことであり、特に隣の国の中国では王朝が変るたびに、滅びゆく前王朝一族は子供・女にいたるまで皆殺しが常識であった。

目には目、歯には歯 流の信長のやり方はむしろ国際的であったという観点を見逃してはならない。

こういった現象はマイナスイメージが先にたつが、その反面日本的な信賞必罰の曖昧なやり方が国際社会から理解されない点は、日本国内では極悪非道と非難されても、国際的には、信長のやり方は理解され易かったといえる。

その点においても、信長のいる日本と、いない日本では、その進路がまったく正反対であり、そして国際社会からの評価も正反対であったであろうことは想像に難くない。

日本の近代化の緒についた明治の時代から、今日にいたるまでのおよそ150年のあいだに、信長のような政治家がいたであろうか。

近代日本政府の礎を創った大久保利通でさえも、所詮ヨーロッパ諸国の猿真似でしかなかった。

坂本竜馬でさえ、世界の流れを読みきる先見性およびその独創性においては

信長の比ではなかった。

特に信長の際だった特徴は、一説には男色の性癖があったといわれるほど、女性に関わるエピソードが聞こえてこない点にある。

当然 嫡男 信忠を筆頭に、次男 信雄、三男 信考、四男 信高 がいたし、徳川家康の長男 信康に嫁いだ 姫もいたぐらいだから 男色一筋ではない。

当時の領主は みんな 小姓を男色の相手にしているのが常識の時代である。

その点では 信長が 性的アブノーマルだったとは考えられない。

それなのに、秀吉や家康のように 女性のエピソードがまったくと言っていいほど 伝えられていない。

この点に注目することは 信長の真実の姿を浮き彫りにする重要な要素だと言えるだろう。

その中で、信長の妹である お市の方とその三人の姫が その後の歴史の表舞台で大きな影響力を持つにいたったことも、歴史的にあまり注目されていないのは、何かその裏に政治的意図が隠されているように思えてならない。

 

 

第二章 近代国家の誕生   

 

この事件から1年後、同じく信長によって滅ぼされた石山本願寺の跡地に新しい町と城をつくった。これが今の大阪である。彼は以前から将来世界に羽ばたく為にはこの地が重要な拠点になると考えていた。その世界に羽ばたく為に必要な情報源として、ポルトガルから遥々やって来た宣教師のルイス・フロイスを信長は非常に大事にもてなした。

ルイス・フロイスの「日本史」でもヨーロッパ諸国のことや、進んだ科学を理解出来た日本人は信長唯一人だったとその中で書いている。特に、信長の知的レベルの高さを象徴するのが、当時ヨーロッパでも地球は丸いなどと思っていた者は殆んど居なかったが、信長は理に適っていると即座に理解したことである。信長のこの先見性と知性は16世紀の時代のみならず、21世紀においても群を抜いたものであり、現代でも最も適した指導者と言えよう。

ルイス・フロイスは安土城の天守閣で信長の引見を受けていた。信長はフロイスにヨーロッパの、特に軍事面でのランクの高い国のことを聞きたがった。

フロイスの出身のポルトガルは1500年代、航海術の先進性のお陰で他の国をリードしていた。だから彼も遥か遠い日本まで来ることが出来たのだ。当時は航海術の優劣が他の国を圧倒する最も大事な要素だった。英国が1600年代、世界をリード出来、大英帝国の礎を造れたのは産業革命による画期的な技術によるハイテクの船を造ることが出来たからだ。

しかし、1500年代は勇気が先陣をきれる国の一番強い要素だった。ポルトガルのあとスペインが、スペインのあとオランダが、オランダのあとイギリスがリーダー国として継いでいった。ドイツ・オーストリア帝国がこれらの国の列強植民地帝国主義で後塵を拝した結果二十世紀はじめの第一次世界大戦を起こし、次いで第二次世界大戦と引き続き20世紀の悲劇を生んだ。

1500年代信長の日本は武器、特に鉄砲の大量生産の設備においても、鉄製の大型の造船技術も世界をリードしていた。しかも、ハード生産のみならず、情報というソフトの創造力においても明らかに、世界をリードしていた。彼の世の中の変化を読み取る先見性は500年を超えた現代でも通用する。ルイス・フロイスは情報の提供者として信長のヨーロッパ戦略に大きな役割を果たした。

正親町天皇の永久追放のあと、本来なら天皇家から次の天皇が選ばれるのだが、信長はその慣習を許さなかった。彼は一千年以上続いた天皇制を今後継続しないことを、侍階級から農民階級までの全民衆に申し渡した。世界史上、信長によるはじめての共和制国家の誕生である。

彼は初代の大統領に自分自身を指名した。しかし信長以降は彼の一族から大統領になることはなかった。信長の後を、秀吉が各藩の領主の選挙によって選ばれ、秀吉の後家康も同じように大統領に選ばれた。信長が大統領になったのは50才のときであった。秀吉は信長より3才若く、家康は秀吉より7才若かった。かくして、栄光の日本共和国はこの三代の大統領によりヨーロッパに先立って成立した。しかし、信長なくしてこの画期的変革は起こらなかったであろう。次に信長は日本を統一したように海外に向けての準備をはじめた。

まず、彼の一番重要な戦略は敵の情報を出来るだけ多く集めることだった。彼にとっては、兵士が如何に勇敢に戦うかより、如何に価値ある情報が情報隊によって集められるかを重視した。

彼のセンセーショナルなデビューだった今川義元との桶狭間の合戦のゲリラ戦法で敵の大将、義元の首を取って打ち破ったのも価値ある情報のお陰であった。その勝利の合戦あとの、論功行賞でも義元の首を取った服部小平太と毛利新介よりも、義元の価値ある情報を伝えた梁田正綱に第一等の賞を与えた点でも、信長が如何に情報を大事にしているかが窺える。

21世紀は先進情報技術による社会になると言われている。400年以上も前にそのことに気がついていた人物がいたことは、正に奇跡だというしかないであろう。

ポルトガルやスペインといった当時のヨーロッパの先進国でも、未だ貴族や宗教の聖職者達と組んで領土を占領していた立憲君主の支配する体制であった。

農民は土地を持つことは出来なかった。日本でも信長以前は同じ制度で荘園制度と言われていた。信長はこの制度を廃止して農民に土地を与えた。信長はまた楽市楽座という自由市場をつくり、そこでは売る者も買う者も自由に出来る制度であった。

彼はまた、今まで神社・仏閣がつくった関所を全廃し人の往来を自由闊達にもした。400年以上も前に現代の日本でも出来ていない近代社会システムを彼はすでに実現していた。信長の死はそういう点において日本という国の年齢を400年も失わせた。この損失は日本だけにはとどまらない。その間世界で帝国主義国によって受けた被支配国のダメージは大きい。アジアや南アメリカは言うまでもなく、特に今尚、世界の大きな課題である黒人差別を産んだ奴隷制度の犠牲は極めて大きい。信長は日本のみならず世界の歴史を変えるのにこれから挑戦する。

では1582年に再び戻ろう。

 

 

第三章 恐るべき先見力   

第四章 信長の西征

第五章 アーリア人

第六章 インド・ペルシャ制覇

第七章 フロイスの日本史

第八章 16世紀のヨーロッパ

第九章 天皇制 復帰

第十章 経済力の強化  

第十一章 ヨーロッパ列強への怒り

第十二章 カスピ海(カザールの海)

第十三章 落とし穴

第十四章 歓喜の秀吉

第十五章 有頂天の秀吉

第十六章 乱心の秀吉

第十七章 リーダーの真骨頂

第十八章 桶狭間の再現

第十九章 餌食・オスマントルコ

第二十章 ユーラシアの臍 コンスタンチノープル

第二十一章 躁鬱の狭間での爆発

第二十二章 黒人リーダー 弥助

第二十三章 勧善懲悪(かんぜんちょうあく)

第二十四章 無常・信長

 

 

おわりに

 

序章で申し上げましたように この小説は あくまで、信長が本能寺の変に遭ったとき、史実としては自害して果てたとなっていますが、仮に生き延びることが出来たと仮定したときに、信長なら、どう生きたか、どう考えたか、日本だけではなく、世界をどう見ていたか、といった視点で著者の大胆かつ希望的予測を勝手気ままに書き綴ってみました。

特に信長の人生観が如実に表れている「人間五十年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、ひとたび生を受け 滅せぬもののあるべきや」という「敦盛」の厭世観を常に意識していた信長が、たとえ生き延びたとしても、昨今の日本の指導者のような醜体を露見するようなことはせず、自分の生きざまを特定したと著者は考えました。

 

そこで彼は49歳で死んだのですが、49歳から59歳までの10年間に限定して、如何に生きたかを想像して書いてみました。

 

信長  この本の奥付ページ
新田論の一般書 小説

 

かつては 42歳が男性の厄年だといわれていましたが、それは人間の寿命が50歳だと考えられていたときのことで、80歳が平均寿命となった現在の日本では、50歳代後半が本当の厄年だと考えられるようになってきています。

59歳という歳は、そういう点において荒波の社会で生きる男性にとって最も波の高いときであります。いや、昨今の女性上位時代の日本においては、女性にとっても59歳という歳は一番、波の高い、荒れ狂う世代と言えるのではないでしょうか。

信長の10年間の生きざまをみて、読者のみなさんが、この混沌とした時代の波を如何に乗り越えていけるかの一考に役立つならば、著者としてこれほどのよろこびはないでしょう。

 

2000(平成12)年10月20日 新田 論

 

 


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