新 田  論 作 品 の E-book 版 紹 介

小説

ルノーの妹

ルノーの妹 Details of this book
新田論の一般書 小説

この小説のモチーフ

 

モチーフはベートーベンの第九をベースにしています。

彼はそれまでの交響曲の常識をふたつ破りました。

ひとつは、主題をプレストで第四楽章にする前段階として第三楽章をヴィヴァーチェで盛り上げる手法を採らずに第二楽章でヴィヴァーチェを採りいれ逆に第二楽章で通常使われるアダージョを採りいれていることです。

しかし、この小説では通常の交響曲のアレグロ・アダージョ・ヴィヴァーチェ・プレスト形式になってしまいました。

そうならざるを得なかったのです。

なんとか 第九に完全にそった形式にしたかったのですが、ベートーベンの鬼才に追従することはできませんでした。

もうひとつは、第四楽章で、交響曲ではじめての合唱を組み込み、しかも最初の詩は自ら書き、そのあとシラーの歓喜の詩を採りいれました。

この物語の中で、合唱を入れることは出来ましたが残念ながら歓喜の詩にはできませんでした。

十八世紀から十九世紀に生きたベートーベンでしたが、彼の本領が発揮されたのは十九世紀になってからで、耳が聞こえなくなってから、彼は内なる音と対峙し、そのために外界からは変人扱いされましたが、かえってこの名曲を生むことになったのです。

ヨーロッパ世界はまさに帝国主義による繁栄を謳歌していた時代で、その中から宮廷音楽としてドイツ・オーストリアを中心にクラシック音楽が発展していったのです。

そのクラシック音楽の最高峰に君臨する第九をあえてモチーフにして、ヨーロッパそしてアメリカの白人社会の人種差別主義、特権階級制度に世界は翻弄されていった史実を露にする試みをしてみました。ここに主人公として出てくるフランス人の兄妹も、自分たちが白人であるゆえの人種差別の自己矛盾、また富を独占する特権階級に自分たちもはいっていたことへの自己矛盾を 肩に重く感じながらも、人間社会の不公正に敢然と立ち向かい、そして露と消えていった中で、人間の愚かさと悲しさを書いてみました。

この物語はあくまでも、作者のフィクションでありますが、できればノンフィクションであってくれればとの想いから世界の人々に訴えたつもりであります。

 

新田 論

 

 

ルノーの妹(新世紀の第九)

  

 

 

若いふたりの兄妹が母の生い立ちを知って

悩み苦しみながら人間社会の不条理に敢然と立ち向かい

そして 兄妹を越えた真実の愛を感じながらも

はかなく散っていく 哀しくも 美しい 愛の物語

 

 

(あらすじ)

 

フランスの郊外に、両親の深い愛情に包まれ育ったルノーとナタリーが、両親の駆け落ち結婚の原因が母の生い立ちにあり、それがナチスドイツのユダヤ人大虐殺と関わりがあったことを知った兄妹。

フランス ドイツ オーストリア オランダと真相を求めて行く中で、思わぬ事実に出くわし 何百年という世界の歴史の渦の中に巻き込まれていくふたりが辿りついた日本。

その日本で、人間社会の不条理を知って敢然と立ち向かっていくルノー、そしてそのルノーを支えるナタリーに襲ってくる容赦ない運命の結末。

 

 

第一楽章 アレグロ(大河のように)

 

 

第一章 異性の意識

 

まわりが、緑の木で覆われている湖の畔にあるロッジ風の家で20才まで育ったルノーの毎日の生活は、まるで小犬がじゃれて一日をあっという間に過ごしてしまうようなものだった。

それが20才まで出来たのも、妹のナタリーがいたからで、ナタリーは17才。精神的にはルノーよりもずっと大人になっていた。

まるで弟のように思っていて、ルノーはそんなこととは露とも知らず、兄としての責任感を持ってナタリーを見守っていた。

まわりから見れば、それは例え子供のままごとであったにしても、相思相愛の恋人同士のように映っていた。

体は、もうお互い立派な大人だったが、特にナタリーは17才とは思えないほど成熟した体に既になっていた。

ルノーの20才の体からすれば、それはまるで、まばゆいほど輝くものだった。

ある日、湖畔で一緒にボートに乗ろうと船台でナタリーの手を握り、ボートに移ろうとしたとき、ボートが船台から離れ、ふたりは湖に落ちてしまった。

ナタリーは泳げなくて、泣きわめいて、ルノーに助けを求めた。

ルノーも必死でナタリーを抱きかかえて、やっと船台にあがった。あまりの恐怖にナタリーがルノーの胸の中で泣きじゃくった時、ルノーの脳裏に妹であることを忘れさせるほどの電気が走り、一瞬ルノーは目眩がした。

「何だろう、この目眩は」

最初ルノーはまったく分からなかった。

だが次の瞬間ナタリーが顔を上げて、ルノーの顔を見つめた時、ナタリーの濡れた髪の匂いが目眩の原因だったことがわかった。

なんともいえない香りだった。

ルノーの首から胸のあたりに、突きあげてくるような衝動が走ったそのとき、ルノーはナタリーを異性として初めて意識した。

ナタリーが湖で溺れたとき、ルノーに与えた香りは、髪の香りであり、それはまた、彼女の体の香りでもあった。

いままで、彼女から、このような芳香を感じたことがなかったルノーは不思議でならなかった。

「どうしてだろう、彼女はなにも香水などつけたことがない。それなのにこんなにいい香りがしたのは」

女は大人になり、心に急な変化が生じると、他の動物がそうであるように、その変化に応じた体臭を発散するらしく、その臭いを嗅いだ男が、またその臭いで大人になる。

しかし、ルノーはそんなことをいままで教えてもらったことがなかったが、ナタリーを異性として意識したことだけは確かだった。だが妹だ。

彼は、そんな自分の気持ちに戸惑ったとともに、淡い薄紅色のプリズムを自分の中に感じ取っていた。

それが大人としての目覚めと気がついたのは、ずっと先のことになるが、翌日から、彼は毎朝七時に起きていたのを一時間早く起きることにして湖のまわりをランニングしはじめた。

昨日の出来事で気がついたことがあったのは、ナタリーはルノーよりも3才年下だったが、体の成熟度は大人だったこと、そして、それに比べて自分の体の貧弱さに一種のコンプレックスをナタリーに感じていたこと、それが朝のランニングになったのだ。

三年前、両親といっしょにルーブルに行った時、ルノーがミロのビーナスに魅了されたことを思い出して、ナタリーがもうミロのビーナスの体になっていることを昨日知ったことは、20才のルノーにとってナタリーが妹だけに複雑な気持ちだったが、なんともいえない 甘美な気持ちでもあった。

ルーブルでナタリーがダビデ像を見て気に入っていることを知って、はしたないと思った記憶が蘇った。

それも、今朝からランニングを始めたきっかけだった。

兄は妹を守らなければならない、そのためには逞しくならなければならない。

そう言い聞かせてルノーは、約5キロもある湖は坂道のアップダウンが5回もあるハードなものだったが1日目から湖を1周した。

ナタリーとよく一緒に湖を駆け遊んでいたとき、この五つの坂道に名前をつけた。

不思議の坂、運動の坂、仕事の坂、恋の坂、遊びの坂。

ナタリーは恋の坂が好きだ。

ルノーは遊びの坂が好きだ。

今朝、この五つの坂を走ってみて気がついたことがあった。

不思議の坂をあれだけしょっちゅう駆けていたのに、まったく記憶になかったこと、しかし今朝走ってみて、その坂が自分に何か囁いているように感じたことだった。

それが、大人の目覚めであったことは、ルノーは知るよしもなかった。

 

 

第ニ章 ローテンブルクへの旅

 

あれから、3ヶ月が経った晩秋の10月に父親から、フランクフルトの郊外にある、ローテンブルクの父親の弟にあたるルノーの叔父さんから、珍しいアイスワインが手に入ったので、誰かに取りに来させるようにという手紙が届いた。

父親はルノーに貰い受けに行くようにと言った。

「どれぐらいの量なの、ひとりで持って帰れるかな」

と父親に何となく訊ねた。

出来れば、ナタリーと一緒に行きたかったからだ。

「二ダースあるらしい、ちょっとルノーだけでは無理かな」

「じゃあ、ナタリーを連れていってもいい」

と無理に大きな声で父親に言ってみた。

「そうだな、珍しい高価なワインだから、もしも落として割ったら大変だからナタリーも一緒に行きなさい」

父親はルノーの思惑も分からずナタリーの方に向かって言った。

「わぁ、うれしい、わたしもローテンブルクの叔父さんのところへ行けるのね」

「大丈夫かね、ナタリー、アイスワインは一ダース15キロの重さがあるんだから、ひとり一箱ずつ持てるかね」

と父親はナタリーに、少し怖い顔をして訊ねた。

ナタリーはなんて答えていいのか分からずルノーの顔を覗き見した。

「大丈夫、僕が2ダース持つから」

父親はいぶかしげに、

「それじゃあ、なんのためにナタリーを連れて行くんだ」

と怒り声でルノーに言い返した。

ルノーは咄嗟に機転の利く子だった。いままでにも父親との間でこんなことはよくあったから、動揺もせず、顔の表情も変えずに答えた。

「ローテンブルクからフランクフルトまでは車で行くからひとりでも大丈夫だけど、フランクフルトの空港は大きいし、ワインはチェックされるし、荷物のチェックインの時、30キロ以上では重量オーバーで、追加料金だけでナタリーの飛行機代より高くつくよ」

ときっちりと説明したので、父親は充分納得した顔をして、ふたりでローテンブルクへの旅行を許した。

「ルノーって、頭いいわね、もうわたし、おとうさんの顔を見て、一緒にローテンブルクに行けないと思ったわ」

「だって、本当にそうなんだから、ひとりで20キロまでしか乗せてくれないんだから、ふたりだったら40キロまでOKなんだ、10キロオーバーしたら、600マルク取られる、飛行機代は300マルクだよ、どっちが得かすぐ分かるよ」

ナタリーは得意げに話すルノーに頼もしさを感じた。

ルノーもナタリーも両親の信念で、学校教育はジュニアースクールまでで、その後は、父親の指導のもと、家での教育を受けた。しかし父親の実家はパリの実業家で、父親もソルボンヌ大学を卒業していたし、母親も大学時代の同級生だったのがきっかけで付き合い始め、祖父が当時経営責任者をしていたある会社の後を継ぐつもりだったが、母親との結婚で祖父から猛反対をされたため、実家を飛び出し、パリから500キロほど離れた今の地に住み着いたのが20年前のことだった。

その実家の格式ばった躾のおかげで、自由を奪われた青春を送ったため、父親は子供達の教育は自由な環境でしてやりたいという思いでルノーもナタリーも学校に通ったのは15才までで、あとは父親と母親の直接の教育を受けた。

祖父の会社は、その後経営不振に陥り、今は他人の手に渡ってしまい、祖父も祖母もそのショックから、15年前に祖父の死後、一ヶ月あとに祖母も亡くなった。父親は当時5才と3才になったルノーとナタリーを連れてパリの実家へ葬式に参列するために行ったが、とうとう母親は最後まで実家に入ることは許されなかった。

この過去の深いこころの傷が、せめて子供たちだけには味わうようなことはさせたくないという想いが母親には特に強かった。自由に育ててやりたかった。

両親の深い思いやりと愛情のもとでふたりはおおらかに育ち、自給自足の生活だから、決して贅沢は出来なかったが、汲々とした生活感がなかったのは両親の並々ならぬ決意で始めた夫婦生活だったからだということは、ルノーもナタリーも理解していた。そういった、一般の家庭環境と違った中で育ったふたりが、将来、人間社会のそれまでの常識を超えた人生を送るとは、両親も、当のふたりもその時は思いもしなかった。

だが、このローテンブルクへのふたりの旅がその劇の幕開けになったとは、いったい誰が予測できたであろう。

 

 

第三章 城塞に囲まれた町

 

フランクフルト空港からルノーはレンタカーを借りて、ローテンブルクの町までの高速道路に入った。アウトバーンで有名な高速道路だから最高速度は無制限で、時速200キロを超す猛スピードでとばしていく車の中でルノーは安全運転だといって100キロ程度でゆったりと走った。安全運転は口実で、ナタリーとのドライブをゆっくり楽しみたかったのだ。

アウトバーンの両側の風景はやはり、フランスのものとは違って、広くて、葡萄園も両側に広大なひろがりをみせていたが、なんとなくボルドーのそれとは趣むきが違った。やはりボルドーが一番だとルノーは思った。

実はルノーは将来、葡萄園を持ちワインづくりの仕事をするのが夢だった。

帰りの便には充分時間があったので、2時間程度で着けるのに3時間半ほどかけて、ローテンブルクの町に入るインターを出たのはもう午後1時すぎだった。

ローテンブルクの町は新市街と旧市街とに分かれており、新市街はどこにでもある町並みだが、旧市街は周囲約3キロの城塞に囲まれた町だ。

城塞には見張り台が200メートル毎にあり、壁の内側は見張り番が歩く一メートル幅の歩道がずっとあり、外敵を撃ち落とす銃穴が無数にある。

昔の騎士が今でもふっと現れてきそうな雰囲気が残っている。

ここに今でも人が住んでいる。もちろん観光客が主なる収入資源の町だが、祖先の家をずっと引き継いで、住んでいる人たちが殆どだ。

ルノーの叔父さんは、このローテンブルクの城塞内の繁華街にある店でワインを特に観光客相手に販売している。15年前に祖父の会社が経営不振で他人の手に渡るまで祖父の下でルノーの父親の代わりに跡目を継ぐつもりで経営の勉強をしていたが、他人の手に渡ったため、身を引いて、趣味であったアイスワインの生産地で有名なローテンブルクに移り住んだ。

叔父さんの家にルノーとナタリーは行った。小さな垣根の入り口のまわりに奇麗な花がさびしく咲いていたのが印象的だった。

ドァーをノックしたが誰も返事がない。

ルノーは、多分叔父さん夫婦はワインの店だなと思って、家から5分ぐらいのところにある町の中心街のすぐ傍でワインの販売をしている店に行くことにした。

日曜日だったのと秋の観光シーズンでもあったので、街は観光客で溢れていた。

叔父さんのワインの店も忙しそうだった。

店の中に入ると叔母さんがすぐに気がついて、叔父さんに合図したので、ルノーが恥ずかしそうに頭を下げると、叔父さんは、我が子のようにルノーを抱きかかえて三年ぶりの再会を喜んでくれた。

お客さんとちょうど商談をしていた最中で、お客さんもその再会を横で微笑みながら待っていてくれた。

日本人の客らしく、アイスワインを買って帰りたくてわざわざローテンブルクまで、フランクフルトから足を伸ばしてきたのだ。

「とにかく、一番上等な希少なアイスワインを出来るだけ欲しい」

と言った日本人に、

叔父さんは、

「それなら、過去10毎年金賞を獲ったフランケンのアイスワインにしなさい、これはめったに手に入る代物ではないから」

と答えて奥の部屋から一本の、瓢箪型の瓶のアイスワインを持って来た。

以前からワインに興味を持っていたルノーだから、そのフランケンのワインを見たとき彼の脳裏に衝撃が走った。

「こんなワインを初めて見た、なんと品のあるワインだろう、こんなワインを自分も造ってみたい」

と思った。

ルノーのワインを見たときの衝撃の顔を見ていた、日本人の客が、

「ワインに興味があるらしいね、このワインを見抜ける眼力はたいしたものだ」

と叔父さんにルノーのことを褒めて言った。

叔父がルノーのことを我が子のように思う理由はワインであった。

「ルノーはワインを造りたいと言っていたね、このローテンブルクで素晴らしいワインを造ってみないかね」

と叔父さんが言った瞬間、ルノーの心の奥に大きな石が放り投げられたような気がした。

「そうだ、ここへきてアイスワインを造ろう」

だがルノーは口には出さず笑っていた。

ナタリーが

「ルノー、わたしも一緒にローテンブルクでワインを造りたいわ」

と言った。

叔父さんの店でアイスワインを受け取ると、ルノーはお礼と挨拶をすませてすぐに帰路に着こうとした。

叔父夫婦はせめて昼食だけでも一緒にと言ったが、帰りの飛行機の便に乗り遅れるからと叔父夫婦の誘いを固辞して、少しローテンブルクの城塞の街並みをナタリーと歩いてみた。

「何人ぐらいの人たちがここに住んでいるの」

とナタリーがルノーに聞いたがルノーは答えられなかった。

「とてもかわいくて人形が住んでいるような家ばっかり」

「ホテルも何軒かあったけど、こじんまりしていて、静かでいいわ」

「土産物屋さんもとてもかわいい」

「パン屋さんがとっても清潔そうで、わたしもここでパンをつくってみたい」

「観光客を乗せて走っている馬の顔が何か悲しそうでかわいそう」

ナタリーはひとりで喋っていた。よほどこの町が気に入ったようだとルノーはナタリーの横顔を見て思った。

町の中心街に時計塔があり、ちょうど2時の鐘が鳴り、時計のドァーが開いて人形が踊るのが、観光客のお目当てのショーだった。

「何か食べたい? もう2時を過ぎたけど」

「ええ、軽いものと、紅茶が欲しいわ」

「それじゃあ、そこの店で軽く食べよう」

中心街のすぐそばにあるカフェに入った。

「なんて、かわいい店なの、ここの町はみんな、お人形が住んでいるみたい、人間が住んでいるなんて信じられない」

確かに、ルノーが3年前に初めてこの町に来た時、男でもそう思ったぐらいだから女の子だったら感激するだろうなと思い、ナタリーをどうしても連れて来たかったのだ。必ず気に入ると思った。

「紅茶ふたつと、チーズケーキふたつ」

とルノーが注文した。

ルノーはそっとテーブルの下で腕時計を見た。2時半過ぎだった。

この町を3時に出て急げばフランクフルトのインターに着くのが5時半ぐらいだ。飛行機の便が8時15分、3時間あればフランクの町をナタリーに案内してやれる。ルノーは時間の計算をしてやっと落ち着き、ふと目を上げてみると、紅茶とケーキがテーブルの上にあり、ナタリーが早く食べたそうにルノーを見ていた。

「ああ、おいしかった」

と店を出ると、満足そうにナタリーが言った。

「もう、フランクフルトに帰るの」

「ああ、ちょっと早めにフランクに着いて、行きたいところがあるんだ」

「ええ、どこへ」

「内緒だ」

城塞をすぐ出たところにある駐車場に停めてある車に乗ると、急いで高速道路のインターに向かった。

5分ぐらいでもう高速道路に入ってフランクフルトに向かっていた。来るときとは違って150キロ以上のスピードで走った。

 

 

第四章 ユダヤ博物館での再会

 

予定どおり5時半過ぎにフランクフルトの町に入り、空港から市街地に入る手前でマイン川を越える。そのマイン川の川添いにルノーの目的地があった。

中心街からちょっとだけはずれただけだが、閑静な場所に5階建ての長いふたつの建物がつながっているかなり古いビルだった。

「ここは、どこ」

とナタリーは戸惑う様子で聞いた。

「ユダヤ博物館だ」

「ユダヤ博物館にどうしてわたしを連れて来たかったの」

「いずれ、分かるさ」

ルノーは、今まだ言うべきでないと思ったが、とにかく、ここにはどうしても連れて来たかった理由があった。

博物館に入ると、入場料が要った。それを支払うと昔風のエレベーターに乗って3階に上がった。

そこは3階までしか行けないのだ。

その上はここで働いて、ユダヤ史を研究している学者の人たちのオフィスだった。

3階のエレベーターを降りるとすぐ前の壁に、無数の人の名前が彫った銅版が張ってあった。

その時、

「やあ、ローテンブルクのワインの店であったね」

と声をかけてくる人がいた。

例のアイスワインをわざわざ買いにローテンブルクまで来た日本人だった。

お互いに出会った場所が場所だけに、言葉が進まなかったが、

「君もここに、興味があるのかね」

と日本人が切り出したので、ルノーも

「ええ、フランクフルトに来ると必ず来ます」

と答えた。

しかも3階のエレベーターの前で、ほんの数時間後の再会だったが、

このエレベーターの前にある名前を彫った銅版が、将来ナタリーとも、この日本人ともなんとも奇怪な人生の展開になる役割を果たすことになる。

「ナタリー、いいかい、ここに掘ってある名前を読んでごらん」

ナタリーの人生も、これからの大きな渦に巻き込まれる瞬間だった。

その日本人はルノーに訊ねた

「君はあのアイスワインの、店の主人の甥っ子だってね」

ルノーは答えた。

「ええ、そうです」

「あの主人はフランス人なのに、どうしてドイツに住んでいるのか、そしてあんな辺鄙な町でワインを売っているんだろうかね、何か深い訳があるんだろうね」

ルノーはあまりにもその日本人が叔父のことを聞くので、ちょっと不快な表情をした。

それを察したのか、その日本人は話題を変えて自分がどうしてアイスワインに興味を持っているかを説明しだした。

その話しだと、その日本人の師と仰ぐ人が8年前に彼をロンドン、パリ、フランクフルトに連れて行き、その師がそれまで父のように慕い、尊敬していたある富豪を紹介した。

その富豪が世界で4本の指に入る最高級ワインの二本を製造する会社を持っており、そのワインに接してワインの虜になったことがきっかけで、フランクフルトでアイスワインと出会い、このアイスワインを作っているところを探し求めてローテンブルクに辿り着いたらしい。

ルノーもワインには関心があったし、今日初めて見たフランケンのワインはルノーのワイン造りの夢を一層掻き立てるほど見事なものだった。

だが、アイスワインを探し求めてフランクフルトに来た日本人がどうしてユダヤ博物館にいるのか、ルノーにはその時知る由もなかった。

だが、いずれ知ることになる日本人とユダヤ博物館の関係がルノーとナタリーのこれからの人生に、時には影となり、時には光りとなって見守っていくことになる。そのことをルノーもナタリーも想像すら出来なかったが、その日本人はなぜか知っているような態度だったのが、ふたりにはその後も心に引っかかっていくことになる。

「この………という名前のことを言っているの?」

とナタリーは聞いた。

「そうだ、この名前をよく憶えておくんだよ」

とルノーは言って、ふと日本人の方を向くと、その日本人が驚愕して震えているのを見て、この日本人と今日ローテンブルクで会ったのは偶然ではなかったのではと疑った。それほどの驚きようだった。

ナタリーだけが、なにがなんだか分からない様子で、

「この名前の人は誰なの、そしてどうしてここに書かれてあるの」

とルノーに訊ねた。

「いいんだ、その名前だけをよく憶えておくだけで」

そして、その奥にあるユダヤ人のゆかりのいろいろな調度品が飾ってあるのをふたりで見てまわった。

「この博物館は、もとはロートシールド家の屋敷だったのを、今は寄贈して 博物館にしているんです」

と後からついてきた日本人が言った。

「フランスでは、ロチルド家、イギリスではロスチャイルド家と言いますがね」

「ここが発祥の地なんです、ロートシールド家の。その前はウィーンのハプスブルグ家で執事をしていたようです、祖先は」

ルノーはますます、この日本人は自分たちに何か関りがあるんだという思いでいっぱいになった。

「ちょっと、5階に上がってみませんか、そこではいろいろな学者や研究生が面白い研究をしていますよ」

とまたまた日本人はルノーを驚かせた。

3階以上は、一般観客は上がれない禁足の場所であることを知っていたルノーはこの日本人に不気味さを感じたが、5階には前から上がってみたかった。

「5階には上がれないはずですよ、一般の人間は」

とちょっと牽制をその日本人にしてみた。

「いやぁ、大丈夫ですよ、わたしは」

「見学したいなら、わたしが研究している皆さんを、ご紹介しますよ」

「非常に興味深い研究をしておられますよ」

ルノーはつい

「興味深い研究ってどんなことですか」

と自分の心の底を出してしまって、あとで

「しまった!」

と思ったが、横からナタリーがルノーの腕を抱えて日本人の後をついて行った。

五階は小さな部屋がたくさんあって、それぞれの部屋でコンピュータを使って何か研究をしている様子だった。

一番奥にある広めの部屋に日本人が入って行き、中で仕事をしている女性に笑顔で挨拶すると、恋人に久しぶりに会ったような表情でその女性が日本人に抱きついた。

ルノーはいよいよ、この日本人の正体を知りたくなった。

「ここで研究しているのは、3階のエレベーターの前にあった銅板の名簿のひとり、ひとりの調査をしているのです」

「あれは戦時中、ドイツナチスによって虐殺された、ホロコーストの犠牲者の名簿なんですが、生き残った人達もたくさんいたらしく、その追跡調査をしているんです」

ルノーはどうしてこの日本人はここの人たちとこんなに親しいのか、どうしても聞きたくて、

「あなたは、一体何者ですか」

と吐いてしまった。

「この方は、我々ユダヤ人の友人で、今でも親しくお付き合いして、ここの研究にもいろんなことでお手伝いしてもらっているんです」

と先程の女性が日本人のことを話してくれた。

「やはり、関係のある人だった」

とルノーは一瞬のうちにこの日本人に親近感を感じた。

横でナタリーは狐につつまれた様子でポカンとしていた。

 

 

第五章 パリでの一泊

 

午後8時15分のパリ行きの便に乗る30分前に、チェックイン・カウンターの前にふたりは汗をかいて立っていた。市内からフランクフルトの空港までは、20分程で着いたのだが、市内のカフェで思わぬ時間を使ってしまって、空港に向かったのが午後7時過ぎだった。市内からマイン川の橋を渡って空港への高速道路に入るのだが、マイン川を渡っている時、右側にユダヤ博物館が見え、ルノーは近い内に必ず又来るだろうという予感をしていた。アイスワインをカウンターで預けてほっとしていたら、もう搭乗のアナウンスがされた。ふたりは隣どうしの席についてお互いに顔を見ながらため息をついた。ゲートを離れた飛行機が滑走路に向かって走りだした時には、ふたりはうつらうつらとして、今日一日の疲れが、飛行機の助走の心地よい揺れでふたりを眠りに誘ったのだ。

急に轟音が響きふたりは目を覚ました。フランクフルトの、町の橙色の灯りが眼下に見えていた。あまり大きな町ではないなとルノーは思った。パリやロンドンは空港が市内から遠いため、すぐ眼下に町並みが見えないがベルリンの空港は市内に近いため、離陸すると、すぐ町並みが見える。やはりベルリンは、大都市だなとルノーはフランクフルトの町を空から見ながら、3年前に行ったベルリンのことを想い出していた。かつては東ベルリンだったところの、フリードリッヒ通りを少し東に行ったところにあるベルリンの壁の博物館に行って、そこでドイツ人の人たちがテレビを見ながら、泣いている姿が忘れられなかったことがある。その時、ルノーは国家とか民族とかを超えた人間の哀しみと悦びは同じものだと、少年なりに思ったのだが、それが、ルノーのこれからの生きざまのバックボーンに知らぬまに成長していた。

あっという間にパリの空港に着陸した。時差が一時間あったから、到着した時刻は午後8時30分過ぎだった。家はパリから500キロある。フランクフルトに行く時も、パリで一泊したが、そのときは空港の近くのホテルに泊って朝早くローテンブルクに向かったが、今回は翌日中に家に帰るだけだったから、パリ市内で泊ろうとナタリーに言うと、ナタリーも喜んで同意してくれたが、予約をしていなかったのでルノーの脳裏に不安がよぎった。

パリのシャンゼリーゼ通りの一本横道に小さなホテルを見つけて入っていった。シャンゼリーゼの辺りのホテルを探したのは、翌朝、家への帰路に入る高速道路の入り口が、シャンゼリーゼ通りの凱旋門のちょうど反対側にある高層ホテルの横から入れたからだ。その高層ホテルやその前にある一流ホテルと、今泊ろうとしているホテルでは五倍も料金が違う。若いふたりには不釣り合いのホテルだ。ホテルの小さなフロントでルノーが二部屋空いているかと聞くと、年老いたフロントの係が一部屋空いているという。しかもベッドはシングルだと言う。ルノーはそれでは困るからと言ってホテルを出ようとすると、ナタリーが腕を引っ張って、ここで泊ろうと言った。ルノーはひとつのベッドでふたりは無理だよと言ったがナタリーはきかなかった。

フロントの老人が宿泊帳を出して名前を書くよう促した。ふたりは名前を書くと老人は、兄妹ならいいじゃないかと言って鍵を渡してくれた。5階の部屋で、エレベーターは自分でドァーを開ける代物だ。部屋に入ると、以外と広い部屋で小奇麗なベッドカバーが横たわっていた。ベッドは完全に一人用だ。ヨーロッパのベッドはみなこんな狭いベッドだ。ルノーがナタリーに先にシャワーを浴びるように言って、窓の外に向かって何も見えない外を向いた。ナタリーはバスルームに入った、シャワーの音が聞こえる、シャワーの音が変わる、ルノーは自然に湧きあがる想像を掻き消した。

その夜、結局ふたりは無言のまま一睡もしないで朝を迎えた。どちらからともなく、起きようと言って、初めて声を交わし、お互いの顔を見た瞬間、両方から同時に大笑いの声が発してベッドの上を叩いた。あまりにひどいふたりの顔をお互い見ておかしくてふきだしたのだった。何かもやもやしたものが突然消え、ふたりはもう帰路の車に乗って高速道路を左に高層ホテルを見ながら入って行った。

 

 

第六章 母親の秘密

 

パリから家に着いたのは午後1時過ぎだったが、家には、母親がひとりでルノーとナタリーの帰ってくるのを待っている様子だった。

多分、昼前後だろうと思った母親が昼食を用意して待っていてくれたのだ。

ルノーは母親がキッチンに向かって昼食を作っている後ろ姿を見て、

「お母さん、パリを朝7時過ぎに出て今やっと着いたよ」

とわざと大きな声で後ろから言った。

「ああ、お帰り、疲れただろう、ご苦労さま」

といつもとかわらない口調で答えた。

「昼はまだなんでしょう、用意してあるから、ナタリーと一緒に食べなさい」

「フランクフルトはどうだった、少しは変わっていた、ローテンブルクは変わりようがないでしょうけど」

ルノーは自分が勝手に意識していただけなのか分からなかったが、母親が何となくフランクフルトのことが気になっていたような感じがした。

「3年前とまったくかわりなかったよ」

「ああ、そう、どこか行ったの」

やはり、母親は気にしているんだと思った。どうしよう、正直に言うべきか、迷ったが、帰ったところで疲れていたこともあって、つい嘘をついてしまった。

「別にどこにも行ってないよ、ローテンブルクから直接フランクの町を通り過ぎて空港に行ったんだ」

「それより、パリでホテルの部屋がなくて、ナタリーとひとつのベッドで寝たおかげで殆ど眠れなかった」

と話をそらした。

「まあ、そうだったの、ヨーロッパのホテルはアメリカと違って小さいからね」

ルノーは母親が父親と結婚する前、11才から17才までアメリカのカンサスシティーの中学、高校に通っていたことを知っていた。とにかく抜群の成績で、高校はじまって以来の才女といわれ、フランス人がアメリカに留学するということは極めて珍しく、しかもフランス人特有のフランス語訛の英語ではなくほとんどイギリス人と変わらない英語を喋っていたらしい。しかも普通の留学生はアメリカ人の家庭にホームステイするのだが、彼女の実家がわざわざ彼女のために家を買い、メイドまでつけていたという。よほど金持ちだったんだろうとルノーは思っていた。

確かに、彼女のかもしだす雰囲気はエレガントそのものだったし、ナタリーにもそれが引き継がれていた。

ただひとつだけ違う点があったのは、ナタリーの肌と髪は白人特有のものだったが、母親は少し浅黒い肌で髪の色は真っ黒だった。しかし彫りの深い、エキゾチックな顔つきは、アメリカの美人女優で有名なエリザベステーラーを彷彿させるぐらい魅力的だった。

しかし、父親との結婚を許されなかった心の傷はよほど深かったようで、その理由については、何でも話してくれた彼女もさすが口を閉ざして語ろうとはしなかった。

ルノーは彼女の浅黒い肌と黒髪を引き継いでいたから余計母親と父親の実家との溝が何であったのかが気になっていたが、語ろうとしない母親を気づかって、父親にも今まで決して聞こうとはしなかった。

父親の実家が大企業のオーナー経営者だったから、母親の実家が貧しい家庭なら反対されることもあっただろうが、どうもまわりの両親の親しい人たちの話では、母親の実家は父親の実家をはるかに凌ぐ大富豪で、今でもそうらしい。

ルノーはその母親の秘密を知りたくて、3年前フランクフルト、ベルリン、そしてウィーンに行ったのだ。

そして、フランクフルトのユダヤ博物館、ベルリンの壁博物館、ウィーンから2時間 ほど北西に行くと、ドナウ川のそばにあるメルク修道院に行った。

そこが、父親との結婚にまつわる母親の傷の秘密を明かしてくれる場所だったのだ。

 

 

 

第七章 メルク修道院

第八章 母親の一族

第九章 ナタリーの家出

第十章 メノーラの刻印

第十一章 マインのほとり

第十ニ章 日本人の血

第十三章 再びメルクへ

第十四章 メノーラの持ち主

第十五章 メルクとの別離

第十六章 花紋

第十七章 母娘の再会

第十八章 久しぶりのふたり

第十九章 アムステルダムへ

第二十章 系図

第二十一章 ポルトガル系ユダヤ人

第二十ニ章 西安と京都

第二十三章 系図と花紋書

第二十四章 新たな花紋書

第二十五章 日本への思い

 

第二楽章 アダージョ(やすらぎの中の警告)

第二十六章 そしてニ年

第二十七章 古都

第二十八章 古都の光と影

第二十九章 太秦の波多家

第三十章 波多家のルーツ

第三十一章 奈良へ

第三十二章 法隆寺の夢殿

第三十三章 巳の神杉と七支刀(メノーラ)

第三十四章 ささやき

第三十五章 祇園祭り

第三十六章 不思議な老人

第三十七章 先祖との対面

第三十八章 帰京

第三十九章 同窓会

第四十章 戦国の英雄 世界に翔く

 

 

第三楽章 ヴィヴァーチェ(二つの旋律の頂点)

第四十一章 はじめての講義

第四十二章 面接

第四十三章 再び京都へ

第四十四章 老人との再会

第四十五章 法隆寺の出来事

第四十六章 英雄の遺志

第四十七章 現代の比叡山

第四十八章 選ばれたる人たち

第四十九章 歴史の真実

第五十章 立川基地

第五十一章 千人の勇士

第五十二章 地球人連合

第五十三章 ナタリーの悲しみ

 

 

第四楽章 プレスト(すべての否定の中での合唱)

第五十四章 人道主義世界をめざして

第五十五章 総選挙

第五十六章 女優ナタリ

第五十七章 アンネフランク

第五十八章 世界への発信

第五十九章 北京から済南へ

第六十章 首相との対話

第六十一章 ガンジーの遺志

第六十二章 アラブとユダヤの切り札

第六十三章 両親との再会

第六十四章 LAの空

第六十五章 革命広場

 

 

ルノーの妹  この本の奥付ページ
新田論の一般書 小説

最終章 サンタモニカに消える(完)

 

ナタリーが、パサデナの家から消えた。

家の中のテーブルの上に一枚の便せんが置いてあった。

そこには、ナタリーの恋人だった男が脅されて、ルノーの前に現れたこと、テヘランで講演することを、脅していたグループに連絡をしていたことが書いてあった。

そのことを知ったナタリーは

「男の方が女より誠実よ」

「これから起こることは、すべて女の性(さが)が原因だということをよく分かって受けとめなさい」

と母が自分に言ったことの意味を初めて知った。

Armyの連中からナタリーに似た女性が、サンタモニカの砂浜をさまよっているように歩いていたという情報を得て、探しに行ったが、もうそこには誰もいなかった。

それから一ヶ月後サンタモニカの浜辺に一着の女性の服が漂着していた。

それは7年前にルノーと一緒にボートに乗って池に放り出されたときに、ナタリーが着ていた服だったが、誰も知る由もなかった。

 

-完- 


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