新 田  論 作 品 の E-book 版 紹 介

本当の自分へ

心の旅の案内書 Part Ⅱ

心の旅の案内書-2 本の紹介詳細ページです。
新田論の自分探し書 本当の自分へ

はじめに

実は2000(平成12)年2月12日から執筆活動に入り、106日後の5月28日に書き上げたのが「心の旅の案内書 PartⅠ」でした。

あれから、10年余りが過ぎ、その間に、「神の自叙伝」、「神はすぐ傍」、「夢の中の眠り」、「静止宇宙論」、「哲学の道」、「こころの琴線」、「今朝のお話」、「新しい考え方」、「革命的発想」、「脱知的文明社会」、「超格差社会」、「同等社会」、「自殺のすすめ」、「貧乏のすすめ」、「病気のすすめ」、「不幸のすすめ」、「女のすすめ」、「悪のすすめ」、「愚のすすめ」、「弱のすすめ」、「地獄のすすめ」、「奴隷のすすめ」、「悪魔のすすめ」といった「すすめシリーズ」、そして、「ゼロの世界」、「死の理解」と寸断なく書き続けてきました。

そして、「超対性理論」から、再び、「神はすぐ傍」、「神の自叙伝(鬼神・鬼神冬子)」と戻ってきたわけです。

そうしますと、締め括りは、やはり「心の旅の案内書」ということになります。

当時のことを思い出しながら、10年過ぎたいまの考え方をまとめる上でも、「心の旅の案内書(Part Ⅱ)」を書くことは必然的なことだと思います。

そして、「心の旅」の目的地は言うまでもなく、「本当の自分」に辿り着くことです。

私たち人間は、文明社会の黎明期に「本当の自分」を忘却してしまい、その代わりに、「ニセモノの自分」を発見し、以来、「ニセモノの自分」を自分だと思い込んで生きてきました。

自然社会には一切ないのに、人間社会だけにある差別・不条理・戦争は、「ニセモノの自分」がつくりだしたものです。

自然社会には一切ないのに、人間社会だけにある支配する者と支配される者の二層構造社会、そして、世襲・相続の差別制度は、「ニセモノの自分」がつくりだしたものです。

その結果、自然社会には一切ないのに、人間社会だけにある悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生は、「ニセモノの自分」がつくりだしたものです。

「心の旅の案内書 Part Ⅱ」が、みなさんの心の旅のゴールである「本当の自分」に辿り着けることの一助になれば、これほどの喜びはありません。

 2011(平成23)年5月23日  新 田  論

 

 

第一部 生命=息

第一章 人類の夕焼け/息のメカニズム

人類の夕焼け

おおきな、おおきな 骨の棒を振りかざし 二本足の獣が闊歩する

洞穴の中で たがいに抱き合って 夜の恐怖に震えていたのが、まるで

嘘のように雄雄しく闊歩する

朝がやって来るとほっとする、朝焼けが命の調べ

朝焼けが光を生むことを知った朝、手弱い獣が雄雄しく胸をはる

その獣の両手から、おおきな、おおきな 骨の棒が朝焼けの空に

放り投げられる

世界でもっとも凶暴な獣の誕生を祝福するかのように朝焼けが世界を

照らしだす

朝焼けに慄く四本足の獣が手弱く洞穴に駆けこんで昼の明かりに震え

ながら 夜を待つ

だけど 二本足の獣はもう夜を恐れない

そのとき世界は夕焼けの死のプロローグ

あれから どれだけの時間が経っただろう

いまや 夕焼けの死のエピローグ

21世紀は 夕焼けの死のエピローグ

朝焼けが誕生のプロローグなら 

夕焼けは死のエピローグ

 

 

息のメカニズム

  生きている証は息をしているかどうかでわかります。

では、息のメカニズムはどのようになっているでしょうか?

赤ん坊が生まれた直後に泣く行為は、悲しいから泣くのではなく、生きることの開始点としての証をするために息を吸うわけです。

一方、死ぬことを、息を引きとると言います。

すなわち、死という終了点としての証をするために、最後の息を吐くわけです。

私たち人間の一生は、息を吸うことで始まり、息を吐くことで終わるのです。

吸う→吐く→吸う→吐く→吸う→吐く・・・・・吸う→吐く。

まさに、誕生→生→死という私たち人間の一生は、最初の吸う=誕生から始まり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うという生を経過して、最後の吐く=死で終わるのです。

そこで、誕生とは、心臓や脳が動き始めることであり、要するに生まれるということは止まっている体が動くことであるわけです。

一方、生とは、心臓や脳が動いていることであり、要するに生きているということは体が動き続けていることであるわけです。

他方、死とは心臓や脳が止まることであり、要するに死ぬということは体の動きが止まることであるわけです。

誕生→生→死という私たち人間の一生は静止→運動→静止で完結するのですから、まさに、円回帰するということになります。

円とは始点→円周→終点であり、始点=終点ですから、円回帰すると言うわけです。

すなわち、始点→円周→終点であり、始点=終点の円回帰は、一元→二元→三元、一元=三元とも表現できます。

まさに、一元=三元とは似て非なるものと言えるものです。

曹洞宗の開祖である道元の著書「正法眼蔵」の一節に、「不思慮底を思慮する、是、すなわち、非思慮」というものがあります。

まさに、不思慮が一元、思慮が二元、非思慮が三元であり、思慮に対して、不思慮も

非思慮も無思慮という点においては似ているが、不と非はまったく次元の違う世界であると論破しているわけです。

すなわち、誕生は吸う一元であり、生は吐く→吸う二元であり、死は吐く一元という位相になっているわけです。

言い換えれば、誕生は静止一元であり、生は運動二元であり、死は静止三元という位相になっているわけです。

では、生という運動二元は、運動→運動→運動・・・なのでしょうか?

では、生という吐く→吸う二元は、運動→運動→運動・・・なのでしょうか?

吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うには、折り返し点があります。

言い換えれば、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うには、静止点があるのです。

つまり、運動→(静止)→運動→(静止)→運動・・・というように、吐く→吸う二元には、吐くでもない、吸うでもない、すなわち、息の無い状態が必ず介入するわけです。

まさに、二元論世界の本質がここにあるわけで、その本質とは絶対一元に他ならないわけです。

まさに、二元論世界の本質は絶対一元にあり、絶対一元とは好いも悪いもないのですが、好いも悪いも両方超えるために、敢えて、好い面と悪い面を表出させた二元論世界があるわけです。

まさに、一枚のコインの表面と裏面が二元論世界に他ならないわけです。

平たく言えば、本来、善も悪もない絶対一元の世界というのが、静止一点の始点であるわけですが、円を描くには円周が要る、すなわち、善悪相対二元が要るわけで、ではなぜ善悪相対二元の円周が要るかと言いますと、最終的には、静止一点の終点である、善と悪を超える善悪超対三元に到達しなければならないからです。

そこで、息の問題にたとえてみれば、本来、吸う息も吐く息もない絶対一元の世界というのが、静止一点の始点であるわけですが、円を描くには円周が要る、すなわち、吸う息・吐く息相対二元が要るわけで、ではなぜ吸う息・吐く息相対二元の円周が要るかと言いますと、最終的には、静止一点の終点である、吸う息と吐く息を超える吸う息・吐く息超対三元に到達しなければならないからです。

つまり、息の無い状態に到達しなければならないからです。

まさに、吸う息と吐く息を超える吸う息・吐く息超対三元の世界にこそ、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある折り返し点があり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある静止点があり、運動→(静止)→運動→(静止)→運動・・・というように、吐く→吸う二元には、吐くでもない、吸うでもない、すなわち、息の無い状態があるのです。

そして、息の無い状態に「本当の自分」が存在するのです。

そして、息の無い状態に気づくには、吸う息、吐く息と常に一緒に在ることが絶対条件であり、吸う息や吐く息の前にしゃしゃり出たり、後ろに控えたりすることは許されないのです。

 

つまり、常に『今、ここ』にいることが絶対条件なのです。

 

 

第二章 強力(ごうりき)・武蔵/息=両刃の剣

 

強力(ごうりき)・武蔵

巌流島での決闘で 武蔵は船の櫓で小次郎と闘った

櫓の重さは 刀の三倍もある

それだけの重い櫓を 刀替わりに使えるだけで勝負ははっきりしていた

やれ決闘の時刻に 武蔵は わざと遅れた 

やれ太陽を背に向けて 小次郎の目を眩ました

そんなことは 後日の創り話しだ

いくら 小次郎の剣術が優れていても 勝負にはならない

ボクシングでテクニシャンのフライ級チャンピオンが ヘビー級のただのボクサーと闘うようなものだ

武蔵の決闘は剣術ではない あきらかに喧嘩だ

喧嘩にルールなどない

戦争も喧嘩だ ルールなどない

ただの 殺し合いだ

武蔵が 太平洋戦争の最高司令官だったら 原爆を落とされるようなことはなかっただろう

-「武蔵」(-新田 論 作-)第六章【強力・武蔵】より引用-

 

 

息=両刃の剣

  赤ん坊が生まれた直後に泣く行為は、悲しいから泣くのではなく、生きることの開始点としての証をするために息を吸うのだと第一章で述べました。

それまでの十月十日の間、母親の胎内にいた赤ん坊は、自分で息をする必要はありませんでした。

母親と一体でいることができたから、自ら息をする必要はなかったわけです。

ところが、母親から独立する日がやってきたわけですから、これからは自ら息をしなければならなくなったわけです。

まさに、自ら息をすることの表明が、『オギャー』と泣くことなのです。

母親の胎内で生きてきた十月十日の間は、母親との一体感(全体感)で生きてきたのですが、これからは独立して生きなければならない。

ところが、私たち人間のみならず、生きものはすべて自然(地球)と一体でなければ生きてゆくことはできません。

なぜなら、自分とは自然(地球)の一部であるからです。

なぜなら、自分とは自然(地球)と一体であるからです。

だから、死んだら大地(地球)に戻るわけです。

まさに、自然(地球)との橋渡しをしてくれているのが息なのであって、息によって自然(地球)との一体感(全体感)を維持できるのですから、生命=息に他ならない。

そこで、生きるということは息をすることに他ならないと第一章で述べました。

逆に言えば、息をしなくなるということは、死ぬことに他ならないわけです。

では、死ぬ自分とは一体何者でしょうか?

私たちが忘却してしまった「本当の自分」が死ぬということでしょうか?

そうではありません。

私たちが忘却してしまった「本当の自分」の代わりに登場した「ニセモノの自分」こそが、死ぬ自分に他ならないのです。

まさに、考える自分が「ニセモノの自分」であり、在る自分が「本当の自分」であるわけです。

言い換えれば、“自分は”と思う自分が「ニセモノの自分」であり、“自分は”と思わない自分が「本当の自分」であるわけです。

そこで、第一章で述べましたことを思い出してください。

息の問題にたとえてみれば、本来、吸う息も吐く息もない絶対一元の世界というのが、静止一点の始点であるわけですが、円を描くには円周が要る、すなわち、吸う息・吐く息相対二元が要るわけで、ではなぜ吸う息・吐く息相対二元の円周が要るかと言いますと、最終的には、静止一点の終点である、吸う息と吐く息を超える吸う息・吐く息超対三元に到達しなければならないからです。

つまり、息の無い状態に到達しなければならないからです。

まさに、吸う息と吐く息を超える吸う息・吐く息超対三元の世界にこそ、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある折り返し点があり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある静止点があり、運動→(静止)→運動→(静止)→運動・・・というように、吐く→吸う二元には、吐くでもない、吸うでもない、すなわち、息の無い状態があるのです。

そこで、自動車にはエンジン動力を車輪に伝えるミッション・ギアという構造があって、ミッション・ギアにはニュートラル・ギアが必ずあります。

第1段ギアから第2段ギアにシフトアップする際にも、第2段ギアから第3段ギアにシフトアップする際にも、ニュートラル・ギアを通過しなければなりません。

逆に、第3段ギアから第2段ギアにシフトダウンする際にも、第2段ギアから第1段ギアにシフトダウンする際にも、ニュートラル・ギアを通過しなければなりません。

まさに、ニュートラル・ギアこそが、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある折り返し点であり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある静止点であり、運動→(静止)→運動→(静止)→運動・・・というように、吐く→吸う二元には、吐くでもない、吸うでもない、すなわち、息の無い状態であるのです。

まさに、息をするということは、吸う→吐く→吸う→吐く→吸う→吐く→吸う→吐くという吸う息・吐く息相対二元のことであり、吸う→吐くは、吸う→折り返し点→吐くという円回帰運動をしているわけで、吸う息が始点であり、吐く息が終点であり、始点=終点、つまり、吸う息と吐く息は別のものでなく、吸う息=吐く息であったのです。

そのことに気づかせてくれるのが、吸う→折り返し点→吐くの折り返し点の存在だったのです。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

まさに、吸う息=吐く息、つまり、生=死に他ならないことを意味していたのです。

ところが、私たち人間は、吸う息と吐く息、つまり、生と死を別ものだと捉えてきたのです。

更に、私たち人間は、死を悪いものだと捉え忌み嫌い怯えて生きてきたのです。

まさに、

赤ん坊が生まれた直後に泣く行為は、悲しいから泣くのではなく、生きることの開始点としての証をするために息を吸う。

一方、死ぬことを、息を引きとると言う。

すなわち、死という終了点としての証をするために、最後の息を吐く。

私たち人間の一生は、息を吸うことで始まり、息を吐くことで終わる。

吸う→吐く→吸う→吐く→吸う→吐く・・・・・吸う→吐く。

まさに、誕生→生→死という私たち人間の一生は、最初の吸う=誕生から始まり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うという生を経過して、最後の吐く=死で終わる。

まさに、死を避けて生きてゆくことができないことを、息は教えてくれているのですが、その結果、「ニセモノの自分」、すなわち、自我意識(エゴ)の自分を誕生させた元凶でもあるのです。

 

まさに、息は両刃の剣であり、使い方次第であり、「ニセモノの自分」に振り回されもするし、「本当の自分」に気づかせてもくれるのです。

 

 

第三章 ダブルクラッチの天才/ダブルクラッチ

 

ダブルクラッチの天才

若きヒーローのジェームス・クラークがポールポジションを取った

フライング・スコットと呼ばれた天才ドライバー

ヒゲの紳士のグラハム・ヒルがその横につける

チームロータスの同僚がしのぎを削るインディ500

ダブルクラッチのテクニックは半端ではない

アクセルとブレーキを右脚一本で同時に踏む

その瞬間を縫って左脚のダブルクラッチの速さ

クロスフラッグが切って降ろされた

“ジュダーいよいよだな!”

“いよいよだ!”

両者の殺意は頂点に達していた

圧倒的なスピードでフライング・スコットが他を寄せつけない

冷静沈着なヒゲ紳士が盲点をつく

そのとき、クラッシュの音がした

それはインディ500ではなくホッケンハイムだった

ふたりはそして別れを告げた

-新田 論 作-

 

 

ダブルクラッチ

  自動車にはエンジン動力を車輪に伝えるミッション・ギアという構造があって、ミッション・ギアにはニュートラル・ギアが必ずある。

第1段ギアから第2段ギアにシフトアップする際にも、第2段ギアから第3段ギアにシフトアップする際にも、ニュートラル・ギアを通過しなければならない。

逆に、第3段ギアから第2段ギアにシフトダウンする際にも、第2段ギアから第1段ギアにシフトダウンする際にも、ニュートラル・ギアを通過しなければならない。

まさに、ニュートラル・ギアこそが、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある折り返し点であり、吐く→吸う→吐く→吸う・・・吐く→吸うにある静止点であり、運動→(静止)→運動→(静止)→運動・・・というように、吐く→吸う二元には、吐くでもない、吸うでもない、すなわち、息の無い状態である。

そこで、強いエンジン動力(トルク)を車輪に伝える場合には、ダブルクラッチを使わなければなりません。

レーシングカーや大型バスやトラックといったエンジンの回転力(トルク)が途轍もなく大きい場合、第1段ギアから第2段ギアにシフトアップする際にも、第2段ギアから第3段ギアにシフトアップする際にも、ニュートラル・ギアで一旦クラッチを入れて、再度クラッチを放してからシフトアップすることをダブルクラッチと言います。

逆に、第3段ギアから第2段ギアにシフトダウンする際にも、第2段ギアから第1段ギアにシフトダウンする際にも、ニュートラル・ギアで一旦クラッチを入れて、再度クラッチを放してからシフトダウンすることをダブルクラッチと言います。

その理由は回転数がもの凄く速いからです。

言い換えれば、もの凄い速度の中でギアチェンジをしなければならない時ほど、ダブルクラッチをしなければならないわけです。

そこで、吸う息(第1段ギア)と吐く息(第2段ギア)の折り返し点(ニュートラル・ギア)での滞留時間が、シングルクラッチでは一瞬の通過時間であるのに対して、ダブルクラッチでは完全な静止時間になります。

つまり、「本当の自分」を自覚する機会が、シングルクラッチでは一瞬の通過時間しかないのに対して、ダブルクラッチでは完全な静止時間のため多くなります。

まさに、速い息をすればするほど、「本当の自分」を自覚する機会が増え、遅い息をすればするほど、「本当の自分」を自覚する機会が減るわけです。

そこで、私はいま英会話ジムというものを開催しており、英語を母国語で喋る人たち並の英会話能力の開発をしていますが、その中で一番大事なのが、できるだけ速く英語を喋る訓練です。

まさに、速く喋ろうとすればするほど、「本当の自分」の自覚が要るのです。

言い換えれば、雑念をなくして、『今、ここ』に集中しなければならないのです。

その時に一番大事なのが、『今、ここ』にある文章に集中することであり、前の文章や先の文章に心を奪われたら最後、「本当の自分」を忘却してしまう、つまり、『今、ここ』にある文章を忘却してしまい、すべては水の泡と化します。

まさに、前の文章のときは前の文章と共にあり、先の文章のときは先の文章と共にあり、『今、ここ』の文章のときは『今、ここ』の文章と共にいる、というまさに『今、ここ』三昧になっていなければならないのです。

息でたとえれば、まさに、吸うときは吸う息と共にあり、吐くときは吐く息と共にあり、折り返し点にいるときは折り返し点にいる、というまさに『今、ここ』三昧になっていなければならないのです。

英語のみならず、母国語で喋っている者にとっては、言葉を喋っているとは、『今、ここ』三昧になっている状態であり、外国語で喋っている者にとっては、言葉を喋っているとは、『今、ここ』三昧になっていない状態の違いがあるわけです。

従って、母国語で喋る人たち並の会話能力を身につけるとは、外国語を『今、ここ』三昧になって喋る状態になることであり、その時に必要なのがダブルクラッチなのです。

つまり、ニュートラル・ギアで一旦静止することが最も有効な方法になるのは、車の場合と同じです。

速く走れば走るほど、ニュートラル・ギアで一旦静止する。

速く喋れば喋るほど、ニュートラル・ギアで一旦静止する。

速く息をすればするほど、ニュートラル・ギアで一旦静止する。

平たく言えば、

速く走れば走るほど、第1段ギア→ニュートラル・ギア→第2段ギアのニュートラル・ギアで一旦静止する。

速く喋れば喋るほど、前の文章の『今、ここ』の文章→『今、ここ』の文章→先の文章の『今、ここ』の文章と共にいる。

速く息をすればするほど、吸う→折り返し点→吐くの折り返し点を自覚する。

そのためには、ダブルクラッチのテクニックが必要なのです。

 

 

第四章 夜へ急ぐ人/息つぎ(Pause)

 

夜へ急ぐ人

夜へ急ぐ人がいりゃ

その肩とめる人もある

黙って過ぎる人がいりゃ

笑って見てる人もいる

かんかん照りの昼は怖い

正体あらわす夜も怖い

燃える恋ほど脆い恋

あたしの心の深い闇の中から

おいで おいで

おいでよ する人 あんた誰

-友川 かずき 作-

 

息つぎ(Pause)

  自動車の車輪の中心には轂(ハブ=hub)があって、虚空状態になっています。

台風の目と同じメカニズムで、やはり、中心は虚空状態になっています。

ではなぜ虚空状態なのでしょうか?

まさに、ミッション・ギアにおけるニュートラル・ギアが中心(轂(ハブ=hub))に当ります。

そして、轂(ハブ=hub)がある限り、周辺(Periphery or Circumference)があります。まさに、ミッション・ギアにおける第1段ギア、第2段ギア、第3段ギアが周辺(Periphery or Circumference)に当ります。

まさに、台風の暴風雨域が、周辺(Periphery or Circumference)に当ります。

まさに、自動車の車輪のスポークやタイヤが、周辺(Periphery or Circumference)に当ります。

まさに、吸う息や吐く息が、周辺(Periphery or Circumference)に当ります。

そして、吸う息→折り返し点→吐く息の折り返し点が、中心(轂(ハブ=hub))に当ります。

そこで、私たち人間の体にも、中心(轂(ハブ=hub))と周辺(Periphery or Circumference)があります。

肉体と称しているものが、いわゆる、周辺(Periphery or Circumference)に当ります。

では、私たち人間の体にとっての中心(轂(ハブ=hub))とは一体何処にあるのでしょうか?

そこで、私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))と周辺(Periphery or Circumference)の橋渡しをしているのが、息に他ならないのです。

では、吸う息は何処に行くのでしょうか?

まさに、吸う息は私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))に行くのです。

また、吐く息は何処から来たのでしょうか?

まさに、吐く息は私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))から来たのです。

まさに、生命エネルギーは、私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))にあるのです。

言い換えれば、「本当の自分」は、私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))にあるのです。

まさに、吸う息→折り返し点→吐く息では、吸う息、吐く息が周辺(Periphery or Circumference)で、折り返し点が中心(轂(ハブ=hub))なのです。

ところが、中心(轂(ハブ=hub))は虚空状態になっているのです。

言い換えれば、中心(轂(ハブ=hub))では、“自分は”という意識が無いのです。

まさに、私たち人間が自分の肉体を“自分は”と思っている所以がここにあるのです。

まさに、私たち人間が“自分は”と思っている肉体は、しょせん、私たち人間の体の周辺(Periphery or Circumference)に過ぎず、私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))は何処にあるのかを自覚していないのです。

そこで、日本で生まれた座禅の目的は、私たち人間の体の中心(轂(ハブ=hub))を見つけることにある。

言い換えれば、日本で生まれた座禅の目的は、「本当の自分」を発見することにある。

こんな逸話があります。

一人の修行僧が一人の師匠に悟りを得るために弟子入りした。

だが弟子入りしたその日から、師匠が弟子に命じたのは寺の掃除ばかりだった。

弟子のすることは毎日掃除三昧で、弟子入りした日から3年が経っていた。

3年我慢していた弟子がとうとう爆発して、師匠に談判しに行った。

「私は一体いつまで掃除ばかりしなければならないのでしょうか?」

「私は一体いつから悟りの修行ができるのでしょうか?」

弟子の話を聞いていた師匠が、その瞬間、弟子の頬を思いきり殴った。

「一体何をするんですか!」と弟子が顔を真っ赤にして怒った。

そうすると、師匠が言った。

「悟りとはこんなものだ!」

一方、私は平成セミナーという勉強会をはや10年以上開催しているのですが、メンバーの数は一向に増えません。

なぜなら、メンバーに入ってもすぐに辞めてゆくからです。

その理由は、私の教え方に問題があるのです。

馬鹿な質問や発言をすると、私からぼろ糞に怒られるからです。

『彼らは一体何の勉強をしに来たのだろうか?』

『自分の自尊心を助長させるために勉強をしに来たのなら、お布施をしこたま要求される宗教団体に行けばいいのに・・・』

『平成セミナーは「本当の自分」を発見する場だから、自尊心を傷つけられるのが嫌なら、来る場所が間違っている』

『なぜなら、「本当の自分」を発見するためなら、自分の自尊心こそ「ニセモノの自分」の正体なのだから、自分の自尊心を傷つけてくれる場所に行かなければならないはずで、平成セミナーはその場所である』

私は、平成セミナーから去って行く彼らに対していつもそう思っています。

まさに、彼らは師匠から突然頬を殴られた弟子の心情なのでしょう。

「本当の自分」は、まさに、吸う息→吐く行きの間の折り返し点にいるのです。

「本当の自分」は、まさに、吸う息→吐く行きの間の息つぎ(pause)にいるのです。

まさに、吸う息と吐く息は一枚のコイン裏表に他ならず、吸う息=吐く息であって、吸う息と吐く息は別ものではないのです。

  

 

第五章 雨ニモマケ、風ニモマケ/夢と現実

 

雨ニモマケ、風ニモマケ

何処かで噂のレストランがあると聞くと

好きでもないのにわざわざ食べに行き

何処かでロールケーキが流行っていると聞くと

大行列もモノともせず買いに行き

何処かで韓流スターが流行っていると聞くと

好きな彼氏がいてもわざわざ拝見に行き

何処かで開店祝いがあると聞くと

興味もないのにわざわざ出向き

そんなニセモノのわたしにはなりたくない

-新田 論 作-

 

 

夢と現実

  夢と現実の違いは本質的にはありません。

夢は現実の一部であり、現実も夢の一部なのです。

だから、夢を観ている真最中には、夢と自覚できず、現実だと思い込んでいるし、現実の真最中にも、夢と自覚できず、現実だと思い込んでいるわけです。

つまり、現実だと思い込むこと自体が錯覚なのです。

逆に言えば、夢だと自覚することが悟りなのです。

ところが、私たち人間は、夢から覚めれば夢だったことを自覚することを毎日経験しているにも拘わらず、四六時中、起こっている出来事を現実だと錯覚して生きています。

だから、死を怖がるわけです。

これほど学習能力の欠落している生きものは、自然社会の生きものには先ずいません。

人間社会の生きものが潜在能力を100%発揮できない原因がこの点にあるわけで、人間以外の生きものでも、人間社会に同化している生きもの、いわゆる、ペット類も潜在能力を100%発揮できないで生きているのです。

だから、彼らもガンになる。

ペットが、人間の抱えている病気と同じ病気になる所以がここにあり、一重に潜在能力を100%発揮できないことが原因なのです。

言い換えれば、潜在能力とは100%発揮するのが当たり前であり、潜在能力を100%発揮できないことが病気そのものであるわけです。

潜在能力を100%発揮できる野生動物には病気など一切ないのです。

では、私たち人間社会で生きている者にとって、潜在能力を100%発揮するには、一体どうしたらいいのでしょうか?

夢を観なくなればいいのです。

つまり、すべては夢だと悟ることです。

この世の中の出来事はすべて夢だと悟ることができれば、夢を観なくなります。

そうすれば、潜在能力を100%発揮するようになれます。

潜在能力を100%発揮している野生の生きものは決して夢など観ません。

すべては夢だと悟ることができれば、夢を観なくなる。

では、私たち人間社会で生きている者にとって、夢は何処で観ているのでしょうか?

いわゆる現実の世界を見ているのは、二つの眼によってです。

では、いわゆる夢を観ているのは、二つの眼でしょうか?

『今、ここ』で二つの眼を閉じてください。

何が観えますか?

二つの眼の間にぼんやりした乳白色の光のようなものが観えるはずです。

まさに、映画館の舞台にある白いスクリーンのようなものです。

まさに、白いスクリーンで夢が上映されているのです。

二つの眼の間にあるぼんやりした乳白色の光のような白いスクリーンこそ、夢の舞台だったのです。

いわゆる第三の眼です。

そこで、二つの眼を閉じると自動的に顕れてくる乳白色の光のような白いスクリーンである第三の眼に意識を集中します。

そうしますと、息を客観視することができるようになり、吸う息と吐く息の間のギャップを自覚できるようになります。

そして、息の具体的な形が第三の眼に映し出されます。

息の具体的な形とは、空気としての息が単なる乗り物であって、息の中に積まれている生命エネルギーまで見えてくるのです。

吸う息には生命エネルギーが積まれていて、肺の中に入ると、生命エネルギーだけが降ろされて、空っぽの息が吐き出される、その様子が第三の眼に映し出されるわけです。

まさに、吸う息→折り返し点→吐く息の折り返し点が、第三の眼で認識されるわけです。

言い換えれば、「本当の自分」が第三の眼に映し出されるのです。

そこで大事なことは、第三の眼に意識を集中する方法です。

夢を観ているのは一体誰でしょうか?

言うまでもなく、「本当の自分」です。

では、夢の中に出演している自分は一体誰ですか?

どうやら、「ニセモノの自分」のようです。

なぜなら、夢の中に自分は出演していないのです。

ここの点をよく理解しなければなりません。

まさに、夢を観ているのは観察者としての自分です。

言い換えれば、夢を観ているのは客観視する自分です。

ところが、夢に出演しているのは主観者としての自分です。

言い換えれば、夢に出演している自分などいません。

従って、夢を観ているのは「本当の自分」であることが判明しました。

まさに、観察者こそ「本当の自分」なのです。

言い換えれば、客観視する自分こそ「本当の自分」なのです。

従って、第三の眼に息の姿が映し出されると、その姿を観察している「本当の自分」を自覚することできるのです。

まさに、吸う息→折り返し点→吐く息の折り返し点の姿が、第三の眼に具体的に映し出されるわけです。

まさに、「本当の自分」が、第三の眼に具象化されるわけです。

そして、夢である「ニセモノの自分」が現実である「本当の自分」に具象化されるわけです。

 

 

第六章 あの日にかえりたい/夢と現実のギャップ

第七章 終わりに夢ありき/夢の監督者(マスター)

第八章 本音で生きる/善も悪もない

第九章 どうぞ そのまま/悩みは動く 

第二部 気楽な人生

第十章 YES!/四苦八苦の正体

第十一章 No!/苦痛を滅する

第十二章 Yes!No!/神(悟り)はすぐ傍

第十三章 素敵な出逢い/一点集中

第十四章 台無しの恋/連想が元凶

第十五章 もし死んだら/「滅私」=真の愛

第十六章 至福と恍惚/理性&情緒

第十七章 愛は幻想/愛&慈悲

第三部 客観者への道

第十八章 石/モノ志向&ヒト志向

第十九章 男と女の愛/愛と愛欲

第二十章 汚れのない心/「ニセモノの自分」と「本当の自分」のギャップ

第二十一章 眠ってる顔/痛みを感じない方法

第二十二章 木戸をあけて/自己証明( Identification)

第二十三章 台風の目/ダイアネティックス(Dianetics)

第二十四章 蟻の一生/空の舟 

第四部 運動(生)と静止(死)

第二十五章 宇宙の愛/停止&静止

第二十六章 心の色/ありのままを観る

第二十七章 必死/必死の意味

第五部 知性と感性

第二十八章 恋/脱知的文明社会

第二十九章 本物の恋/知性&感性

第六部 見ると観る

第三十章 瞼は心の段幕/“心眼”で観る

第三十一章 愛する一生/全体を観る

第三十二章 一期一会/はじめて観る

第三十三章 パリの色/空(そら=くう)を見る

第三十四章 年寄りの冷や水/生きる意味

第三十五章 他人(ひと)の幸福/相対世界&絶対世界

第三十六章 あなたはどっち/空っぽの自分

第三十七章 虫の音/音が考えの原点

第七部 音(感性)から思想(知性)へ

第三十八章 Sound of Silence/沈黙の音(Sound of Silence)

第三十九章 沈黙の音/見えるものは観えない

第四十章 どぶネズミの暴走/継続が鍵

第四十一章 ニタッ/2種類の寿命を持つ人類

第四十二章 微笑み/母国語&外国語

第四十三章 何処と何時/暗闇と沈黙の世界

第四十四章 気づいている顔/気づき生きもの=人間

第四十五章 終わりに夢ありき/「名前」という音

第八部 部分観から全体感へ

第四十六章 一緒/全体感の一瞥

第四十七章 折り返し/セックスの革命が起こる

第四十八章 恋の四面性/セックスは女のためにある

第四十九章 静かな風/明日は明日の風が吹く

第五十章 暴れる雨/三昧の境地

第九部 「本当の自分」への回帰

第五十一章 わたしは誰?/退化から進化へ

第五十二章 戦争と平和/すべては自分次第

第五十三章 ON/OFF/死の一瞥

第五十四章 わたしとあなた/すべてが不確定な混沌世界

第十部 映画の鑑賞者 

第五十五章 夢のなかのわたし/鑑賞者=超えた者

第五十六章 ?のわたし/鑑賞者=五感を遮断できた者

第五十七章 苦痛のわたしの姿/痛み(不幸)と快感(幸福)の狭間

第五十八章 わたしを見るあなた/自我エゴ & 他我エゴ

第十一部 形あるものから形ないものへ

第五十九章 あなたは川/海(「本当の自分」)と波(「ニセモノの自分」)

第六十章 雲を切る/既に『今、ここ』に在る幸福

第六十一章 七色の空/形のない者が感じている

第六十二章 覚醒/覚醒とは

第六十三章 ニタッ/二元要因を超える生き方

第十二部 変化するものから変化しないものへ

第六十四章 宿命の魔がさす/変わるもの & 変わらないもの

第六十五章 荒海に飲まれて/「本当の主観」 & 「ニセモノの主観」

第六十六章 リアルな橋/現実と夢

第六十七章 こうなって ああなって/好きと嫌い

第六十八章 はじめに言葉ありき/光の欺瞞性

第六十九章 雨雲/男性型&女性型

第七十章 めまい/目覚めよ日本人!

第十三部 空(Sky)=空(Empty)

第七十一章 リアルな橋/実在するものに焦点を置く生き方

第七十二章 勇気と臆病/臆病人間(知性型) & 勇気人間(実行型)

第七十三章 雲を切る/自分の人生を取り返す

第十四部 暗闇がホンモノ

第七十四章 Sound of Silence/「本当の自分」は暗闇の世界にいる

第七十五章 暗闇の不在/充満した暗闇

第七十六章 人見知り/一点集中が鍵

第十五部 「ニセモノの自分」を捨てろ!

第七十七章 火葬/「ニセモノの自分」の正体

第七十八章 コインの裏表/エゴ、お金は使うもの

第七十九章 わたしは誰?/“自分は・・・”は誰?

第八十章 恋/『今、ここ』を生きる=感じて生きる

第八十一章 フィーリングとタッチング/英語をペラペラ喋れる方法

第十六部 自由への飛翔

第八十二章 コンドルは飛んでゆく/自由とは何からの自由?

第八十三章 石/宇宙言語=沈黙の言葉

第八十四章 こうなって ああなって/いや!”これではない!これではない!

 第八十五章 始まりと終わり/“自分は・・・”から“自分は実在する”へ

第八十六章 知って やる/死は未来の出来事ではない

第八十七章 知って 解った/広大な世界観

第八十八章 にらめっこ/自由への飛翔(1)

第八十九章 努力/自由への飛翔(2)

第十七部 安全な生き方などない

第九十章 ハートアタック/外国語のない人間社会

第九十一章 フィーリング/宗教は間もなく消える

第九十二章 ウォー/勇気を持って危険に立ち向かう

第九十三章 雨の音/死=円回帰運動の一環

第十八部 何も知らない自分

第九十四章 死ぬまで生きるなり/独りで生まれ、生き、死んでゆく

第九十五章 Sound of Silence/沈黙=至福の境地

第九十六章 夢のまた夢/人生もまた夢

第九十七章 人間五十年/人生の終着駅は自殺(自死)

第十九部 自己変革

第九十八章 あなたはこのままでいいと思っている/もういい加減自己変革を!

第九十九章 心の旅の案内書/自己変革が生きている証

第百章 努力/形のないものへの自己変革

第百一章 鬼神/『今、ここ』=一心不乱

第百二章 自信という褒美/差別・不条理・戦争の原因

第百三章 戦争と平和/幻想と現実

第二十部 自分より他者を大事に

第百四章 モノの恋/逆転の発想

第百五章 フィーリングとタッチング/“自分さえ好かったらいい”=“他者が先ず好ければいい”

第百六章 心の旅の案内人/“心の旅”の案内人

第百七章 本音で生きる/戦士&兵士

第二十一部 ゼロの哲学

第百八章 雲間を切る/空と雲

第百九章 知性の朝焼け/遊び心で生きる

 

第百十章 夕焼けの死/「本当の二元論」 & 「ニセモノの二元論」

 

夕焼けの死

人類が 知性を得て

人間の朝焼けを迎えてから

何万年

地球のみならず 宇宙までも

支配しようとする 人間

それを また 知らずに いる人間

知の人 と 無知の人 とが活躍した

この 何万年

極端と極端の共存は

必ず 終焉の時が来る

その何万年の間に

東にいた太陽は 西に変った

もう 夕焼けの死が まもなくだ

また 人間の朝焼けが

果たして人間のところに戻って来るだろうか

それとも また 暗い 洞穴の中に 戻るのだろうか

-新田 論 作-

 

 

「本当の二元論」 & 「ニセモノの二元論」

 私たち人間は、

“好きが好くて、嫌いが悪い”

“善が好くて、悪が悪い”

“男が好くて、女が悪い”

“幸福が好くて、不幸が悪い”

“金持ちが好くて、貧乏が悪い”

“健康が好くて、病気が悪い”

“天国が好くて、地獄が悪い”

“神が好くて、悪魔が悪い”

“支配者が好くて、被支配者が悪い”

そして、

“生が好くて、死が悪い”

という考え方になってしまった。

まさに、二元論世界(厳密に言えば、好いとこ取りの相対一元論世界)で生きる者の基本的習性に他なりません。

その結果、

私たち人間社会だけが、支配・被支配二層構造の男性社会に基づく世襲・相続という差別、延いては差別・不条理・戦争が横行する社会、その結果、惹き起こされる悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送っている。

従って、

この二元論世界(厳密に言えば、好いとこ取りの相対一元論世界)から脱却しなければなりません。

言い換えれば、

この二元論世界(厳密に言えば、好いとこ取りの相対一元論世界)を超えなければなりません。

まさに、二元論世界(厳密に言えば、好いとこ取りの相対一元論世界)とは、二進数の世界です。

そこで、

二進数の世界とは0と1の世界です。

二進数の世界とは1と2の世界ではないのです。

若しも、二進数の世界が1と2の世界だったら、コンピュータは誕生しなかったでしょう。

これは一体何を意味しているのでしょうか?

「本当の二元論世界」と「ニセモノの二元論世界」の違いを示唆しているのです。

言い換えれば、

「本当の自分」と「ニセモノの自分」の違いを示唆しているのです。

若しも、二進数の世界が1と2の世界だったら、2>1、すなわち、2は1よりも大きいわけです。

つまり、

“好き(2)が好くて、嫌い(1)が悪い”

“善(2)が好くて、悪(1)が悪い”

“男(2)が好くて、女(1)が悪い”

“幸福(2)が好くて、不幸(1)が悪い”

“金持ち(2)が好くて、貧乏(1)が悪い”

“健康(2)が好くて、病気(1)が悪い”

“天国(2)が好くて、地獄(1)が悪い”

“神(2)が好くて、悪魔(1)が悪い”

“支配者(2)が好くて、被支配者(1)が悪い”

そして、

“生(2)が好くて、死(1)が悪い”

という考え方になるわけです。

まさに、

新田哲学で言うところの「好いとこ取りの相対一元論」になるわけです。

ところが、

二進数の世界が0と1の世界だったら、1>0でもないし、1<0でもない、すなわち、1は0よりも大きいとは決して言えないわけです。

つまり、

“好き(2)が好くて、嫌い(1)が悪い”

“善(2)が好くて、悪(1)が悪い”

“男(2)が好くて、女(1)が悪い”

“幸福(2)が好くて、不幸(1)が悪い”

“金持ち(2)が好くて、貧乏(1)が悪い”

“健康(2)が好くて、病気(1)が悪い”

“天国(2)が好くて、地獄(1)が悪い”

“神(2)が好くて、悪魔(1)が悪い”

“支配者(2)が好くて、被支配者(1)が悪い”

そして、

“生(2)が好くて、死(1)が悪い”

とは決して言えないわけです。

言い換えれば、

“好き(1)が好くて、嫌い(0)が悪いとは決して言えない”

つまり、

“好き(1)でもない、嫌い(0)でもない”

ではどうしたらいいのか?

“好き(1)も嫌い(0)も超えるしかない”

まさに、

二元論の真の意味がここにあるのです。

従って、

“好き(1)も嫌い(0)も超えるしかない”

“善(1)も悪(0)も超えるしかない”

“男(1)も女(0)も超えるしかない”

“幸福(1)も不幸(0)も超えるしかない”

“金持ち(1)も貧乏(0)も超えるしかない”

“健康(1)も病気(0)も超えるしかない”

“天国(1)も地獄(0)も超えるしかない”

“神(1)も悪魔(0)も超えるしかない”

“支配者(1)も被支配者(0)も超えるしかない”

そして、

“生(1)も死(0)も超えるしかない”

という考え方こそが、真の二元論の考え方に他ならないのです。

そして、

“嫌い(0)が実在で、好き(1)は嫌い(0)の不在概念に過ぎない”

“悪(0)が実在で、善(1)は悪(0)の不在概念に過ぎない”

“女(0)が実在で、男(1)は女(0)の不在概念に過ぎない”

“不幸(0)が実在で、幸福(1)は不幸(0)の不在概念に過ぎない”

“貧乏(0)が実在で、金持ち(1)は貧乏(0)の不在概念に過ぎない”

“病気(0)が実在で、健康(1)は病気(0)の不在概念に過ぎない”

“地獄(0)が実在で、天国(1)は地獄(0)の不在概念に過ぎない”

“悪魔(0)が実在で、神(1)は悪魔(0)の不在概念に過ぎない”

“被支配者(0)が実在で、支配者(1)は被支配者(0)の不在概念に過ぎない”

そして、

“死(0)が実在で、生(1)は死(0)の不在概念に過ぎない”

であることは言うまでもありません。

まさに、

ゼロ(0)が実在で、一(1)はゼロ(0)の不在概念に過ぎないのです。

  

 

第百十一章 空間/学問(科学)は死んだ!

 

空間

大きな空 それは はるか彼方

小さな空 それを 空とはいわない

それは 空間という

空と空の間の狭い場所

あなたの体は 狭い空間

それなら 空は 入れない

あなたの体を 広大な空間にする

そんなことができるだろうか

心の世界なら できそうだ

肉体の世界は 限りがある

心の世界は 限りがない

それを あなたは 知っている?

-新田 論 作-

 

 

学問(科学)は死んだ!

 私たちの宇宙は、137億年前に無限大の比重、すなわち、無限に小さいが無限に重い塊が大爆発(ビッグバン)を起こして以来、膨張し続けている結果、137億光年の大きさを持つと言われています。

つまり、137億年前までは無限に小さい静止宇宙だったものが、大爆発(ビッグバン)によって運動宇宙になり、現在では137億×365×24×60×60×30万キロメートルの広さを持つ円宇宙まで拡がり、現在でも拡がり続けているというわけです。

だから、私たちの宇宙は物理学的法則に沿って運動しているというわけです。

そして、先ず、アイザック・ニュートンが物理学を確立し、アルバート・アインシュタインの相対論によって物理学は完成されたというわけです。

その結果、私たちの運動宇宙は、単なる三次元空間ではなく、四次元時空間であり、時間と空間は相対関係を持ち、それまで「時間」は絶対的なものと思われていたものが、空間との関係で「時間」も変化(伸び縮み)するわけで、そのためには、光の速度より速いものは一切ないとしなければならなくなったわけです。

まさに、現代科学の粋と云われる特殊相対論と一般相対論の展開です。

まさに、アインシュタインが「時の人」を超えて、「世紀(20世紀)の人」となった所以です。

ところが同じ頃、137億×365×24×60×60×30万キロメートルの広さを持つ円宇宙(マクロ宇宙)に対して、限りなく小さい宇宙(ミクロ宇宙)を研究する人たちもいて、彼らは量子力学というものを確立していったのです。

つまり、水はH2Oという分子(分子化合物)で、H2Oという分子(分子化合物)は2個の水素(H)と1個の酸素(O)という原子で構成され、水素(H)という原子は1個の原子核と1個の電子、酸素(O)という原子は1個の原子核と8個の電子で構成され、更に、唯一の原子核も陽子と中性子で構成され、更にはクォークという素粒子に分解され、更には超ヒモに分解され・・・とこれまた何処まで縮んでいくかわかりません。

そして、究極の処では暗黒物質と云われる、目に見えない物質があるはずだという始末です。

どうやら運動だけを論じる科学(物理学)に限界がやって来たらしい。

なぜなら、運動世界だけを論じる科学では、実在性について解明することができず、飽くまで、見かけの世界、すなわち、映像世界しか論じ得ないからです。

だから、ビッグバン説が真実であるとまことしやかに論じられるわけです。

言い換えれば、運動世界を論じるだけで充分であり、静止世界を論じる必要性はないと云うわけです。

なぜなら、静止世界では現代物理学は一切適用できないからです。

まさに、ニュートンの物理学の世界であり、アインシュタインは当初、宇宙は静止宇宙と信じていたが、エドウィン・ハッブルの天体望遠鏡によって、宇宙が膨張(運動)していることが1929年に証明されて以来、私たちの宇宙は運動宇宙であり、静止宇宙については神の領域で、私たち人間ではわかり得ない世界と結論づけたわけです。

爾来、私たちの存在する世界は三次元「(静止)空間」ではなく、四次元「運動時空間」だと云うわけです。

では、この「空間」という代物は一体何者なのでしょうか?

「空間」は「Space」であり、宇宙も「Space」です。

「空間(Space)」の定義とは、

(1)支えの一切ないもの

(2)始めも終わりもない無限のもの

(3)静止しているもの

で言い尽くせます。

では、私たちの運動世界(運動ミディアム宇宙)では、

(1)支えの一切ないもの

(2)始めも終わりもない無限のもの

(3)静止しているもの

は一切ないのでしょうか?

量子力学の粋と言われる不確定性原理では、すべてのものは運動していて確かなものは一切ないと云われています。

では、死についても確かではないと云うのでしょうか?

死ねばすべては止まります。

動いているのは生きている間だけのことです。

どうやら運動だけを論じる科学(物理学)に限界がやって来たらしい。

21世紀は個人の時代と言われています。

まさに、これからは、私たちひとり一人が自分の世界観(感)を持つべき時代がやって来たのです。

およそ100年前にドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェが「神は死んだ」と言いました。

それから100年が経ち「学問(科学)は死んだ」のです。

まさに、今年(2011年)になって、イギリスの物理学者スティーブン・ホーキングが、ニーチェと同じように「死後の世界など一切ない!」すなわち「神は死んだ!」と公式発表したのが、21世紀を象徴しているのではないでしょうか?

 

 

 

第百十二章 闇と光の狭間/ゼロの哲学

 

闇と光の狭間

一寸先は闇

二寸先は光

闇を越さないと

光に到達できない

苦労を越さないと

幸せはやって来ない

一寸先の旅

二寸先の旅

あなたはその狭間にいる

-新田 論 作-

 

 

ゼロの哲学

 私たち人間の大人だけが、支配・被支配二層構造の男性社会に基づく世襲・相続という差別、延いては差別・不条理・戦争が横行する社会、その結果、惹き起こされる悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送っている。

一方、人間の赤ん坊や子供、そして、他のすべての生きものは、支配・被支配二層構造の男性社会に基づく世襲・相続という差別、延いては差別・不条理・戦争が横行する社会、その結果、惹き起こされる悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖と無縁の一生を送っている。

では、私たち人間の大人と、人間の赤ん坊や子供、そして、他のすべての生きものの決定的な違いは一体何でしょうか?

まさに、私たち人間と、人間の赤ん坊や子供、そして、他の生きものの決定的な違いは、考える能力、すなわち、知力(知性)の有無にあります。

言い換えれば、死を知った生きものが知性の有る生きもので、知性の無い生きものは死を知らない。

では、なぜ、私たち人間の大人だけが知性を得ることが出来たのでしょうか?

言い換えれば、

では、なぜ、私たち人間の大人だけが死を知ることが出来たのでしょうか?

第十二章【Yes!No!/神(悟り)はすぐ傍】を思い出してください。

“人間は考える葦である”

フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの有名な言葉です。

人類の祖であるアダムとイブがエデンの園を追放された理由は、善悪の判断をする禁断の実を食べたからとする旧約聖書「創世記」の記述は、象徴的に表現されているだけで、実は、生きものの中で人類が唯一考えることのできる動物に進化したことを示唆しているのです。

まさに、人類という動物が生きものの頂点に立つことができた最大の理由は、考える能力を持ったからです。

考える能力、すなわち、知力(知性)が腕力を凌駕した結果、生きものの頂点に立つことが出来たわけです。

では、なぜ人類だけが考える能力(知力)を身につけることが出来たのでしょうか?

四本足歩行から二本足歩行に移ったからです。

今からおよそ500万年前に、人類は猿から進化するきっかけを得ました。

猿(モンキー)が猿人(アウストラロピティクス)に進化したのが500万年前の出来事です。

猿人(アウストラロピティクス)の頃は、まだ四本足歩行だったのですが、それから450万年過ぎた今から50万年前に、彼らは遂に二本足歩行に完全に移った。

原人と呼ばれるホモエレクトス(立つ人)の誕生です。

この時に考える能力(知力)を得るきっかけを得たのです。

従って、旧約聖書の世界では、アダムとイブが誕生したのは紀元前4,004年10月23日午前9時、すなわち、今からおよそ6,000年前とされていますが、科学の世界では、およそ50万年前ということになります。

では、なぜ四本足歩行から二本足歩行に移行したら考える能力(知力)を得ることが出来たのでしょうか?

考える能力(知力)を得たとは、脳力(能力)が高くなったことに他なりません。

つまり、脳が発達したからです。

では、どんな具合に脳が発達したのでしょうか?

そこで、私たち人間のみならず、いわゆる霊長類と呼ばれるチンパンジーやゴリラの大脳には大脳新皮質というものがあり、他の動物(哺乳動物)にはありません。

まさに、大脳新皮質こそが考える能力(知力)の源泉だったのです。

この大脳新皮質こそが脳の発達に寄与し、そのお陰で考える能力(知力)を得るに至ったのです。

では、なぜ大脳新皮質を、人類や霊長類だけが得ることが出来たのでしょうか?

まさに、四本足歩行から二本足歩行に移ったからです。

チンパンジーやゴリラがよく二本足歩行をしているのがその証明です。

では、なぜ四本足歩行から二本足歩行に移ったら、大脳新皮質が発生するのでしょうか?

考える能力(知力)の無い他の動物(哺乳動物)の大脳には大脳古皮質しか無いのが、その逆証明になります。

まさに、四本足歩行から二本足歩行に移行した結果、脳(頭)の位置が相対的に高くなったからです。

その結果、地球からの重力が軽減したからです。

私たちが体重60kgと言うのは、地球の重力を60kg受けていることを意味しています。

まさに、体が軽くなると考える能力(知力)が高くなるわけです。

まさに、体重がゼロになると考える能力(知力)が頂点に達するわけです。

つまり、完全な知性を得ることが出来るわけです。

つまり、悟ることが出来るわけです。

つまり、四苦八苦の人生を送ることから、気楽な人生を送ることが出来るようになるわけです。

では、体重がゼロになるにはどうしたらいいのでしょうか?

一つは、死ぬことです。

死んだら肉体が消滅して体重がゼロになります。

つまり、悟るとは死ぬことなりです。

まさに、“武士道とは死ぬことと見つけたり”です。

もう一つは、生きながらにして悟ることです。

その為には、先ず、毎晩眠りに入る前に、寝床の上で自分の体重がゼロになるイメージを描いてから寝ることです。

そうしますと、夢を観なくなります。

なぜなら、夢を観る「ニセモノの自分」が、体重がゼロの肉体の中におれなくなるからです。

体重がゼロの肉体とは肉体(物質)ではなくなるからです。

逆に言えば、実は、なぜ私たちは寝る時に横になるのでしょうか?

脳(頭)の位置が低くなることによって、地球の重力が強く掛かり、考える能力(知力)が低くなる、すなわち、脳の働きが弱くなることで眠くなるのが逆証明になっているのです。

まさに、私たちは気づかないうちに、悟る縁を毎晩得ているのです。

 

まさに、死を知る能力こそが知力(知性)に他ならないわけです。

言い換えれば、他者の死を見ることで自己の死を知る能力こそが知力(知性)に他ならないわけです。

他の生きものも他者の死を見ているのですが、それが自己の死に拡大解釈する知力(知性)が無いから、自己の死を知るに至らないのです。

まさに、知力(知性)とは自他の区分け能力に他ならないわけです。

そして、自他の区分け能力の縁を与えたのが、他者の死と自己の死を区別出来る能力に他ならないわけです。

まさに、生と死の二元論の誕生です。

そして以後、

好きと嫌いの二元論。

善と悪の二元論。

男と女の二元論。

幸福と不幸の二元論。

金持ちと貧乏の二元論。

健康と病気の二元論。

天国と地獄の二元論。

神と悪魔の二元論。

支配者と被支配者の二元論。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

と際限なく続くわけです。

そして、地球の重力が深く関わっているわけです。

まさに、地球の重力の微妙な(巧妙な)バランスが知的生命体を偶然に誕生させたわけです。

新田哲学では、何十兆の星がある全宇宙の中に地球のような星は他に一つもないと主張する所以がここにあります。

だから、科学は、私たち人間のような知的生命体の存在する星を模索するよりも、重力の微妙な(巧妙な)バランスを持つ地球自身のことを研究する方に力を注ぐべきです。

つまり、宇宙開発など百害あって一利もないのです。

なぜなら、私たち人間自身が地球自身に他ならないから、地球から離れることなどあり得ないのですから。

そして、生きながらにして死ぬ極意を得る。

言い換えれば、自分の心の体重をゼロにすることが、まさに、「心の旅の案内書(Part Ⅱ)の目差すゴールです。

まさに、「ゼロの哲学」の所以です。

  

 

おわりに(そしてまたはじめに)

第二回目の心の旅が終わりました。

まさしく中学生の修学旅行のようなものだったと思います。

依然個人行動が出来ない旅だからほとんど記憶には残らないでしょう。

次の心の旅は高校性の修学旅行程度にはなるでしょう。

すこしは遠くへの旅で個人行動も許されるから記憶に残るでしょう。

高校生の修学旅行になると旅先を自分で選択できるようになります。

それだけ自主的な旅だけに記憶もそれまでよりも強く残ります。

大学生になると修学旅行ではなくなり、個人の思い出のための旅になります。

 

それだけ自由だと、自己責任のともなう旅になるでしょう。しかしまだ楽しい記憶が多い旅です。

 

心の旅の案内書Part Ⅱ 本の奥付です。
新田論の人間学書 文明の進化へ

 

社会に出るといよいよ実戦の旅に入ります。楽しさもありますが、緊張の方が強くなってきます。記憶・思い出という過去の世界から実戦方法を学ぶという未来に焦点が移っていきます。

この辺りが一番苦しい山の旅です。

しかしこの山を乗り越えるとまた楽しい旅に変わっていきます。

そこへ行き着くには、少なくとも七回以上の心の旅を続けなければなりません。

長い旅です。

だからあまり急がずにゆったりとした旅にすることです。

112種類の心の案内版を息切れしないために一日ひとつのペースで参考にしてください。

いつか必ず心の旅を終えるときがやってきます。

そのときまで心の案内書を失わないように気をつけてください。

 

 

2011(平成23)年9月12日 新田 論


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